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途端落

 囲碁・将棋というのは、娯楽の少なかった時分には、大変人気のあった遊びでございまして、夏の夕暮れともなると縁台なんか持ち出して、近所の連中が集まってきては、パチリ、パチリとやっていたのだそうです。
 この碁や将棋というのは、相手の打った手が、いい手だったりすると、思わず「待った」なんて声が出る訳で、「いいや、待たない」「そこをなんとか」と、これが元で、10年来の友人が、たった1日でケンカ別れなんてことになるわけで、負けん気の強い江戸の庶民にとっては罪つくりな遊びでした。

「ちょっと、その手を待っておくれ」
「なに言ってんです。待ったなしと決めたのは、あなたじゃないですか」
「いやまぁ、確かに決めたんだけど……これは、ちょっと困る」
「困ると言いますけれど、碁というのは、一方が良くなって、片方が困るところで勝敗がつくものですから」
「そんな理屈を言うことないだろ。もういいよ、お前がそんなに頑固者だとは思わなかった。帰っとくれ」
「あぁ、帰るよ。こちとら、忙しいんだ。ヘボを相手にしてる暇はないんだ」
「ヘボとはなんだ。もう二度と来るな」

 なんて騒ぎは日常茶飯事でして、それじゃあ、この2人がこれっきり会わないかというとそうでもない。「碁がたきは憎さも憎し懐かしし」なんて言いまして、雨が2日も続くと、2人ともたまらない。

「よく降るなぁ。こう降ると、することがなくて、いやになっちゃうね。こういう時にあいつが来ればいいんだけれど……ふふ、ふふふ。来た、来ましたよ。被り笠なんか被って、来た来た。おい、早く湯を沸かしな。座布団も出すんだよ。もうこっちのもんだ。来た来た……行っちまいやがった。イヤな野郎だなぁ。他に行くとこなんかないだろうに。あ、戻ってきた。やっぱりここに来たんだなぁ。強情な野郎だ。わざとむこうを向いて歩いていやがる。こっちを見ないか。また通り過ぎやがった。電柱の陰に隠れて、こっち見てるよ。馬鹿だなぁ。強情はってないで、さっさとこっちに来ればいいのに。やいやい、ヘボ、ヘボやい」
「なにを? ヘボだと。どっちがヘボだ。お前さんの方がよっぽどヘボじゃないか」
「俺がヘボだ? ようしどっちがヘボか、勝負しようじゃないか」

 こんな具合に再び勝負が始まります。

 落ちは、どうも碁盤の上に水が滴れてくるので、どこか漏れてるんじゃないかと、ひょいと顔を上げると、相手が被り笠をしたまま、碁に夢中になっているというもの。


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