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地口落

 昔は信心深い人がたくさんおりまして、お題目を唱えて諸国を行脚する人も珍しくなかったのだそうです。もちろん、今と違って昔の旅は命がけ。途中で病に倒れたり、がけで足を滑らせたり、あるいは山賊や追いはぎに襲われて命を落とすということもしばしばあったのだそうです。

 旅人が吹雪の中、題目を唱えて歩いていると、行くてにぼーっと家の明かりが見えます。あそこで吹雪が過ぎるまで雪よけをさせてもらおうと戸を叩くと、中から色白の美女が現れます。困ったときはお互い様と、彼女は快く旅人を迎え入れ、体が温まるようにと玉子酒を振舞ってくれます。

 外の激しい吹雪が嘘のように、家の中は暖かく静かで、疲れと心地よい酔いで旅人はいつしか眠り込みます。

 目がさめると、どういうわけか体が動きません。部屋の中には、女の姿が見当たらず、がっしりした体に、彫りの深い顔、眉は太く、口は硬い髭の下に埋もた男が、囲炉裏の側で、先ほど旅人が飲んだ玉子酒を飲んでいます。ところが、しばらくすると男が急に苦しみ出します。そこへ女が帰ってきて、男が玉子酒を飲んだことを知り、

「その玉子酒は、そこで寝ている旅人からお金を奪い、あんたが行きたがっていた上方への旅費にしようと、しびれ薬を入れておいたのに、それをあんたが飲むとは……。因果かな、悪いことはできない」

と泣き出します。

 驚いた旅人は、こんなところで殺されてはたまらないと、かすれる意識の中、なんとか解毒の護符を口に含み、家の外に逃げ出します。

 外は吹雪もやみ、一面の雪景色。旅人は、新雪に足を取られそうになりながらも、懸命に走ります。その後ろから、旅人が逃げたことに気づいた女性が、夫の猟銃を持って追いかけてきます。

 なれない雪道のこと、あせる気持ちとは裏腹に、旅人は、ついに切り立った崖に追い詰められます。どうせ死ぬのなら、撃たれて死ぬよりも、と旅人は「南無妙法蓮華経」と題目を唱えて、切り立った崖から身を投げます。

 御仏の加護か、新雪がクッションになり、旅人は傷ひとつおわず、谷の底にあった筏の上に落ちます。旅人を乗せた筏はゆっくりと川を下り始め、見上げると、女が猟銃を腰だめに構えたまま、恨めしそうに、じっと旅人を睨んでいますが、その姿も再び降り始めた雪の中に消えていきます。

 鰍沢でのできごと。


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