著者 | 山崎正和 | ||||
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タイトル | 歴史の真実と政治の正義 | ||||
出版社 | 中央公論社 | 出版年 | 2000年 | 価格 | 1500円 |
評価 | ★★★ |
著者は、20世紀を、
「政治が歴史的な正義の回復を目的として行動し、歴史が政治的な正義の根拠として書かれた時代」
と総括する。その上で、20世紀に主流となった歴史観を、「過去の『罪』を現在の正義観に立って訴追した」
と見る。言い換えれば、現在の歴史は、
「かつての宗教や文明観の代替物であり、倫理なき時代の行動規範として過当な役割を負わされた」
と指摘する。こうした歴史観を、著者は「正義の歴史観」と定義する。
これは、史的唯物論といわれるマルクス主義的な歴史観だけでなく、アメリカにおいても、「過去はつねに現在より少しずつ不正なのであって、現在はつねに過去を断罪する資格を有している」と見る歴史観だとする。
このような歴史観が、政治に利用されると、「現在の不幸のすべての原因を過去に求めることが運動の原動力となる。それはおしなべて権利回復の運動であり、被害者の加害者にたいする告発のかたちをとる」
ことになる。このような政治的活動が問題となるのは、「歴史に連続性の歯止めがない以上、紛争は無限に拡大する」
ためである。
これに対して、著者は、「政治的な正義は時代の尺度によって異なる」
とし、「歴史の真実というものはけっして客観的なかたちで存在せず、たえまない見直しのなかで、繰り返し再発見される過程のなかにのみ存在する」
と主張する。従って、歴史家に求められるのは、
「歴史は歴史家の外側に客観的にあるものではなく、もちろん逆に恣意的な主観の産物でもない。歴史家に与えられるのは断片的な史料であるが、それをただ継ぎはぎしたところで歴史は生まれない。彼は想像力を駆使して史料を読み、それが語るものを生きた全体にまとめ、1人の、あるいは複数の人間の行動として『追体験』しなければならない」
と言う。まさに、劇作家ならではの言葉である。
さらに著者は、「歴史を人間の人間による解釈と了解の営み」
として、「歴史家の仕事はたんに過去そのものを認識するだけでなく、それを通じてむしろ自己を認識する行為」
だとする。歴史を記述する行為は、「恣意的にできることではなく、彼の全知識と想像力を総動員したうえで、全身でその時間を追体験することによって可能」
になり、「自己の内部に思考の惰性があることを自覚し、理性によってそれを抑制しながら想像力を解放しなければならない」と言う。
著者にとって理想的な歴史記述は、
現在、日本の歴史教育で問題となっている第2次世界大戦に対する評価の問題について、
「東京裁判の判決は講和条約が明示的に、また戦後日本が結んだすべての条約が暗黙のうちに追認した前提」
と指摘した上で、この問題を政治的には、「純然たる相続法の問題だと理解するべきであろう。相続法によれば、資産を引き継いだ者は負債をも相続しなければならない」
と主張する。必要なのは、「どちらかの側の満足ではなく、両者の不満を最小限にとどめること」であり、
「真実の多少の曖昧さを許し、大きな秩序のためには小さな真実の真偽を問わない」
という裁判と同じ基準によって解決すべきだとする。
個人的には、戦争評価に対する著者の認識は健全なものだと感じる。ただし問題は、戦後55年が経過した現在、はたして現代の日本人の多くが過去の日本の歴史から何かを相続したという認識を受け入れられるのか、むしろ過去の遺産を相続放棄するという考えに傾きやすいのではないかと懸念される点にある。
著者の主張の中心は、歴史と政治の分離であり、そのためには
「国家は初中等学校における歴史教育を廃止すべきだ。」
という著者の主張は、一見、過激に見えるかもしれない。しかし、「ここでいう歴史教育とは、事実認識と事実評価としての歴史を教えることであり」
、「歴史について教えるとすれば、それは歴史の精神であり歴史認識の面白さであり、認識された事実ではなく、認識そのものの方法のほかにはあるまい」
と続く主張を読めば、現在の教育問題の主流となっている「ゆとりある教育」の延長線上にあるもにすぎないことがわかる。
時流に乗った意見であるし、教育の現場でもしばしば指摘されることであるから、一般的にも受け入れられやすい主張ではないかと考える。
しかし、実現には、慎重な検討が必要であろう。そもそも我々は、前提となる事実を抜きにして認識する方法を学ぶことができるのだろうか。言い換えれば、方法論のみを教えることに、どれほどの意味があるのかだろうか。
もっとも純粋な理論教育が可能だと思われている数学においても、問題解決のための理論だけではなく、実際に問題を解くという練習が必要とされる。歴史は、まさに事実の認識以外のなにものでもなく、また歴史は連続性を主要な特性とする以上、事実から分離して、方法論だけを切り出すことは、全く不可能だと考える。