著者 | ジャック・デリダ | ||||
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タイトル | 法の力 | ||||
出版社 | 法政大学出版局 | 出版年 | 1999年 | 価格 | 2300 |
評価 | ★★★★ |
本書は、正義と強制力の関係、その具現化としての法の問題を取り扱っています。
一般的に、法は正義を実現すべきものとされています。同時に、強制力を持たない法は無力だと考えられています。そして正義を実現している法を執行するための強制力は、正義であると擬制されています。言い換えれば、法と正義と強制力は、三位一体の関係にあると考えられています。しかしながら、法を執行するための「強制力」と「暴力」との間には、どのような差異があるのか、もし両者に差異がないとすると、「正義」を実現するための「不正義」は許されるのかといった重大な問題が提起されることになります。この問題が最もクリティカルな形で現れるのが、死刑制度です。「人を殺す」という同一の行為態様に対する二重の価値基準という問題に対して、法哲学は未だに明確な答えを出せていません。
デリダは、この問題に対して、構造主義の立場から説明を試みます。
まず彼は、法とは正義の現実化であるべきとします。デリダは、法と正義との間に一定の関係を認めると同時に、両者は全くの別物であることを明確に規定します。これにより、「悪法も法なり」と言ったソクラテスの素朴な正義感と、「正義とは一切の規制を受けないこと」とする幼稚なアナキズムの両方を批判します。
その上で、デリダは、法は此岸の存在であり、正義は彼岸の存在であるとします。我々は、「何が正義であるか」を知ることはできても、「正義とは何か」を知ることは恐らく不可能だと言います。
このような説明は、非常に巧妙な戦略であり、我々は、ある種の法が正義であるかどうか、法を担保するための力の行使が、正義であるかどうかを判断することはできても、ある法が実現する内容こそが正義だとは判断できず、従って、力の行使そのものが正義だとも不正義だとも判断できないということになります。
デリダの説明は、なんの解決にもなっていないように思えます。その点が、デリダおよび構造主義に対する批判となっているわけですが、しかし、まさにその点こそが重要ではないかと思います。オウム真理教に代表されるような宗教を引き合いに出すまでもなく、現代はとかく結論を求められる時代です。しかし、重要なのは、最終解決という名の思考停止ではなく、考え続けるという点にあると僕は思います。