著者 | ニーチェ | ||||
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タイトル | 偶像の黄昏 アンチクリスト | ||||
出版社 | 白水社 | 出版年 | 1991年 | 価格 | 2300 |
評価 | ★★★ |
ニーチェ(特に後期)を評価するのは非常に難しい。
彼の「ツァラトゥストラのみ生きるべき」との主張を、我々は他律的な存在ではなく、自律的存在としての生を生きるべきだと解釈すれば、彼の主張は全面的に肯定できます。他方で、弱きものを悪しきものとして把握し、一律にそれらを否定する思想について、それが現実に適用された際の危うさを感じます。しかもニーチェは哲学は精神世界だけのものではなく、現実の生活にも適用しうるとする立場をとるわけで、多くのニーチェ批判者と同じく、僕もそこに彼の思想の危険性を感じます。
しかし、それだけであれば、少なくとも僕の中では、一つの思想としての位置づけ以上でも以下でもないのですが、彼は強きものとは、自律的な存在であること、自律的な存在とは、全てのものに懐疑的であることだとします。しかし、そうであるなら、ニーチェの思想に懐疑的であることも留保されるべきだと思うのですが、しかし、ニーチェにおいては、彼の思想に対して懐疑的であることは、すなわち「弱きものの思想」として否定されることになります。ここに彼の思想の矛盾と限界を僕は感じます。
以上を前提にして、アンチクリストです。
この『アンチクリスト』において、ニーチェはキリスト教を徹底的に批判します。
彼はまず、「イエス」とその使徒である「キリスト教徒」とを明確に区別します。その上で、ニーチェはイエスとその弟子達との間に、深い溝があると指摘します。それは、先駆者とそのフォロワーとの思想の違いという一般的な問題以上に深刻な溝があるとニーチェは見ます。
ニーチェは、イエスにとっての幸福(神の国)とは、こことは違うどこかにあるものではなく、過去あるいは未来に存在するものでもなく、今まさに現在こそが神の国だとしたところに、イエスの特異性と意義があると指摘します。だからこそ、イエスが磔刑に処せられたまさにその時にも、イエスは自らの幸福を信じて疑わなかったのだと主張します。言い換えれば、「善」「悪」という概念を定義する必要性はイエスにはなく、全てをあるがままの状態で「善し」としたのだとニーチェは言います。
しかし、パウロ以下の弟子達は、イエスの処刑を人類の贖罪と位置づけることによって、言い換えれば、あるがままの人間は「罪深い存在」であり、本来あるべき善い状態には到達しえない。そうした罪深い人間をイエスが自らの犠牲によって、こことは違う善い場所に導いてくれるのだというフィクションを創りあげることで、イエスの処刑によって生じた自らの信仰への疑いを解消したのだとニーチェは指摘します。
ニーチェはこれを人間に対する二重の冒涜だと主張します。第1の冒涜は、性行動など、本来自然な生存のための行動を「罪」としてしまったこと。第2の冒涜は、人間が永久に他者に依存している存在だとしてしまったこと。
こうしたキリスト教の考えをニーチェは復讐の思想だと定義します。要するに、現在不幸である存在が、幸福である存在を否定するための思想、言い換えれば「弱者の思想」だとニーチェは批判します。
もちろん、このようなイエスの理解、キリスト教の理解については、慎重な検証がなされるべきだと思います。ただ、キリスト教を初めとする宗教全般に対して僕が懐疑的になってしまう根底にあるものは、このニーチェの思想に近いものです。