著者 | ハンス・ペーター・デュル | ||||
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タイトル | 神もなく韻律もなく 意識・認識に関するアナーキズム論考 | ||||
出版社 | 法政大学出版局 | 出版年 | 1999年 | 価格 | 2987 |
評価 | ★★★ |
現在、哲学は門外漢の僕から見た限りにおいては、袋小路に迷い込んでしまっているように感じます。
哲学が袋小路に入っている原因は、あまりにも「真理」を探求しすぎることではないかと僕は思います。無論、真理を追究することを途中で諦め、中途半端な「真理」でお茶を濁してしまうのもどうかとは思うのですが(ある新興宗教がまさにこのお茶を濁した真理によって、自壊したわけで)、それでもどこかでイデアが存在するというプラトン的な発想にあまりにも引きずられ過ぎているように思えます。
今僕は、真理を探究しすぎたことが、哲学を袋小路に導いてしまったと書きましたが、この言い方は正確ではないのかもしれません。より正確を期すなら、あまりにも形而上的な問題を過大評価していることが問題の根底にあると言えるのかもしれません。
むしろニーチェが指摘したように、形而上の問題は形而上の問題であって、それ以上でもそれ以下でもないと考えるべきなのかもしれません。あるいは、ヴィトゲンシュタインが指摘した「言語ゲーム」として哲学を再構成する必要があるのではないかと思います。 本書では、「堕罪以来思い込まれてきたほど神は好ましいものではなく、悪魔もさほど悪いものではない」という冒頭の言葉に象徴されるように、実在とその対象に対する認識論について、科学的実証主義を批判しています。
結論を言えば、デュルは、
「もし私が他者の存在を疑う懐疑論を本気で主張するなら、それは、私が何事かを伝えようとしている相手も私自身も存在していないということを誰かに伝えようとすることなのだ」
と指摘し、懐疑論が持つ根本的な問題を浮き彫りにします。
おそらく、我々は最終的な解を求めるのに、あまりにも急ぎすぎているのでしょう。なにも自分たちの生きている時間に最終解が出なくてもいいではないか、最終解を探求していること、そのこと自体に意味があるのではないかと僕は思います。日和見的ですけれど。