著者 | イタロ・カルヴィーノ | ||||
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タイトル | マルコ・ポーロの見えない都市 | ||||
出版社 | 河出書房新社 | 出版年 | 1977年 | 価格 | 2200 |
評価 | ★★★★★ |
実験小説が流行したとき、「不誠実な語り手」の問題が取りざたされた時期があります。
通常、小説では主人公、もしくは第三者によって物語が語られていきます。従来、読者は、その語り手の言葉を信用しています。少なくとも、語り手は嘘をつかない。それを暗黙の了解事項として、読者は安心して作者が作り出した虚構の世界を楽しむわけです。
しかしながら、現実において、語り手は常に正直であることは保証されていません。この言い方が過激であると思われる方は、この部分を語り手は常に正確であるとは保証されていないと読み替えてもらっても構いません。いずれにせよ、日常では語り手は、語り手の主観によって、事実とは異なることを意識的・無意識的に話します。
同様に、小説においても、作家の意図とはあえて異なったことを小説の語り手に語らせることにより、物語の構造を多重化しようとする試みが行われたことがあります。日本では筒井康隆を中心に行われた試みは、しかしながら僕の知る限り、筒井康隆以上に成功した例を知りません。
さて、『マルコ・ポーロの見えない都市』です。
本書は、題名から推測されるように、マルコ・ポーロの『東方見聞録』のパロディとなっています。マルコ・ポーロが本書の中で語る様々な都市は、およそ現実的なものではありません。一種のユートピア(アンチも含めて)的な都市群は、マルコの空想の産物のように読者に提示されます。言い換えれば、マルコ=不誠実な語り手という構造が、浮き上がってくるわけですが、しかし、本書をより深みのあるものにしているのは、これがあくまでもフビライ汗という「聞き手」に語られているということです。
イタリアのベネチア生まれの若者、しかも、語学について専門的な教育を受けたわけではないマルコと、東方の蛮族であったフビライとの間で、当時どのようにしてコミュニケーションを取っていたのかという問題について、現実的な問題としても非常に興味深いわけですが、カルヴィーノは、身振り手振り、あるいはフビライの前に並べた品物を指し示すことでマルコは都市の有り様をフビライに説明していたとします。
ここで、本書が単なる語り手の不誠実さが問題なのではなく、聞き手側の問題へと巧妙にすり替えていきます。マルコはあるいは実際に書かれた『東方見聞録』そのものを語っていたのかもしれない。しかし、それを聞いていたフビライが、自分の聞きたいものを聞きたいように解釈していたのではないかとの疑問へと転化していきます。言い換えれば、語り手が不誠実なのではなく、不誠実な聞き手の問題へと発展していくことになります。
この問題は、カルヴィーノの物語にとどまらず、マルコが語ったことを書き写されたものである現実の東方見聞録へも波及します。
このような二重三重の問題を含むことによって、カルヴィーノは現在の都市論へと軸をずらしていきます。
『木登り男爵』は言うまでもなく、過去の物語を語りながら現在を照射するカルヴィーノの手法にはいつも感心させられます。しかも、読者をいい意味で混乱させながら、その背後ににあるものは単なる「無」だと言い切るカルヴィーノ。本当にすごいです。