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著者 | 吉本隆明、梅原猛、中沢新一 | ||||
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タイトル | 日本人は思想したか | ||||
出版社 | 新潮社 | 出版年 | 1999年 | 価格 | 514 |
評価 | ★★★ |
「この20年間に世界的に見ても、思想ばかりでなくいろんな局面でいろんなサークルが終わっていくという現象が起こってきました。近代を作ってきたさまざまなものの中のいくつかの重要なサイクルが自分を完結しはじめたのです」
冒頭、中沢が指摘するように、これまでの多くの時代とは違い、ある種の終局局面に入りつつあるとの実感は、少なからぬ人が抱いているのではないでしょうか。
単なる終末論は僕の趣味ではないですし、終了は必ずしも悲劇だとは思わないのですが、確かにこれまで正当性をかろうじて維持していたシステムが完結しつつあることと、その次に現れつつあるシステムが、まだ正当性を獲得するまでには至っていないことから、今の混迷があるのではないかと思います。
ただ、どうなのでしょう。そもそも、僕らは「正当性」という基準をどこに置いているのかをもう一度考え直すべきなのかもしれません。これまで僕らは「正当性」と「普遍性」を完全にイコールではないにせよ、ニアイコールで位置づけていたように僕は感じます。地域性、個別性、特殊性はそうした普遍性に対するアンチテーゼとして、言い換えれば普遍性を補完するものとしてとらえてきたわけですが、そうした枠組みそのものを見直す時代になっているように僕は思います。
見直すと言うことは、何も全くの更地から新しいものを作ることを指すわけではなく、まさに今あるものを再度評価し、否定的な側面だけでなく、肯定的な面をも洗い出すことにほかなりません。これまでの僕達自身の思想を再点検することは必要だと思います。
そんなことを最近ぼんやりと考えているわけですが、そういう意味では、本書のタイトルは非常に挑発的です。
本書では、日本人は勿論思想してきた。しかし、それは西洋的な知の体系化の方向性には向かわず、むしろ個別的なもの具体的なもの(例えば能、お茶、仏教等)として現れてきたと指摘します。
正直にいえば、僕は学生時代、哲学史に興味があったものの、あくまでも西洋哲学が中心でした。その理由がまさに、本書で指摘されている概念の体系化があるかどうかだった訳で、本書は、もう一度、日本の思想史を勉強してみようかという動機付けには充分でした。
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