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著者 | ナット・ヘントフ | ||||
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タイトル | アメリカ、自由の名のもとに | ||||
出版社 | 岩波書店 | 出版年 | 2003年 | 価格 | 2900 |
評価 | ★★★ |
ヘントフは首尾一貫して思想信条の自由を保障するためには、表現の自由がなければならないと主張します。そしてその表現の自由を保障するためには、どのような内容であれ発言の自由を保障するだけにとどまらず、どのような内容であれ情報へのアクセス権も保証しなければいけないとします。
彼の言う保障は、決して国家や政府が与えるものではなく、むしろ国家や政府に介入をさせてはならないと主張します。
このような考え方は、確かにある種の素朴さゆえの弱点を持つものの、近代西洋が育んできた自由思想のもっとも良質な根底は、おおむねこのような考えに集約されるのではないかと思います。
ちょうどこの本を読んでいたときに、Winny の開発者が逮捕されるという事件がありました。
僕は別に法律家でもないですし、著作権について語れるほどの何かを知っているわけでもないのですが、Winny の問題を「情報を流通させる権利は誰にあるのか」点から考えると、著作権の問題とはちょっと違ったことになるのかなぁという気がしています。
情報を発信する権利は、おそらく誰もが持つべきだと思います。ヘントフ流に言えば、それはどのような情報であったとしてもです。そこで次のステップとして、発信した情報を流通させる権利を誰が持つかなのですが、それを最初の発信者だけが持つとするのには、僕はちょっと懐疑的です。
確かに最初の発信者がその後の情報流通のあり方に対して一定のコントロールができないと、最初の発信者への還元が難しくなり、発信する意欲が減少してしまうことは充分考えられます。しかしながら、最初の発信者が完全なコントロールを行えるとすると、ある情報にアクセスする場合に、常に最初の発信者の許可を得なければならないような事態も考えられるなど、また異なった不都合が発生してしまうのではないかと考えています。
この問題については、これまでは、絵画にせよ、出版物にせよ、映像にせよ、音楽にせよ、「物」として流通することを中心にしていたことで、ある種のバランスがとれていたように思います。しかし、情報をデジタル化することが比較的容易にできるようになった現在、そのバランスが崩れてきているように僕は感じます。
デジタル化された情報は、それまでの「物」に固定されていたときに比べて非常に柔軟かつ低コストで流通することが可能になりました。その結果、これまでには考えられなかったような速度で広範囲に情報を流通させることが可能になりました。同時に情報流通をコントロールすることが事実上不可能になったと言えるのではないかと思います。
この事実上不可能なことを実施しようとしていることが、現在の著作権問題の混乱の遠因になっているのではないかと僕は考えています。
例えば、コピーコントロール CD の問題で言えば、CD 音源をデジタル化することを制限しようとしているわけですが、デジタル化することと、従来の CD をテープにダビングすることとの違いを制限する側は必ずしも充分説得力のある説明ができているとは、僕には感じられません。結局のところ、デジタル化を制限する理由は、最初の発信者以外による情報流通をコントロールしたいという一点なのではないかと思います。
今回の Winny の開発者逮捕に関して言えば、まさにこの情報流通をコントロールしたいという点が露骨に現れた事例なのではないかと考えています。
もちろん本書は、80年〜90年代に書かれたものなので、Winny に限らず、最近のネットワーク技術の発展による新しい情報流通については、それほど詳細にはふれていないのですが、思想の自由についてのヘントフの意見を読んでいると、複雑な気持ちになります。
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