|Home / 読後感想 | |
著者 | カレル・チャペック | ||||
---|---|---|---|---|---|
タイトル | カレル・チャペックの映画術 |
||||
出版社 | 青土社 | 出版年 | 2005年 | 価格 | 1400円 |
評価 | ★★★★★ |
優れたジャーナリストってなんだろう。
そんなことをぼんやりと考えさせられることが最近多いような気がします。
例えば、ホリエモンことライブドアの堀江氏を巡る報道や、あるいはマンション偽造事件、新潟の地震や雪害、はたまた各所で発生している子供を狙った犯罪。そんな事件の報道を見るたびに、これは本当にジャーナリスティックな仕事なのだろうかと、ついつい意地悪な見方をしてしまいます。
「真実を伝える」のは正論だと思うし、真実を伝えるに越したことはないとは思うものの、そもそも「真実」とはなんでしょう。加えて言えば、「真実を伝える」というジャーナリストは「真実」を知っていることに他ならないわけですが、本当にそうなんでしょうか。それは単なる傲慢さ以外のなにものでもないのではないでしょうか。ある事象の肯定的な側面、否定的な側面、その両方を価値判断なく提示することがジャーナリストの役割で、価値判断を行うのは僕達自身なのではないかと考えるのは、それこそ傲慢なのでしょうか。
なんて青臭いことはともかくとしまして。
本書は、カレル・チャペックによる映画評です。
映画評と言っても、ここの作品についての評論ではなく、映画というメディアそのものについての論評になっています。
チャペックの時代の映画ですから、もちろんカラーではありませんし、トーキーすらない無声映画時代からの評価になっているのですが、本書に書かれていることは、今でも充分通用する内容となっています。
例えば。
- 未来の映画のなかでは、かつては空想家の単なるばかげた作り話にすぎなかった寓話が、ほとんど完全な肉体を備えて現れ、私たちの前で語るだろう。
- 活動写真は絶えず世界に何か新しい、新規なものを放出していかなければならない。映写技師は世界中に広がっていく。映画の脚本家は新しい事件を考え出し、新しい背景を探す。映画会社は撮影規模を拡大させ、群衆や通行人の数を増やし、克服された困難。記録的な撮影量。その結果ロケ費用はうなぎ登りに上昇し、撮影用の器具は日々に複雑になり、精妙になる。
- 映画のモチーフとしての世界。それがアメリカ映画のドラマツルギーなのである。
まるで今のハリウッド映画の出現を予感させるような指摘をチャペックは行っています。
僕がチャペックのことを大好きで、チャペックには全面降伏状態だと言うことを差し引いたとしても、チャペックの視線の確かさ、自分の意見と事実との線引き、これらについて誰もが納得するのではないかと思います。
ジャーナリストに求められている資質は、今述べたことにつきるのではないでしょうか。視線をぶらさないこと、意見と現象とを混同しないこと。ジャーナリストも自説を展開してしかるべきです。それ以前に人間である以上、どんなに客観的になろうとしても、無意識のうちに自分の考えが入り込んでしまうものだと思います。だからこそ、意識して、自分の視線を確かめ、自分が書いたものの中に自分の意見が入り込んでいないか確かめる必要があるのではないかと思います。
困ったことに、最近の日本の報道を見ている限り、複眼的な観察を本当にしているのかどうか怪しんでしまうことが多いように感じます。それ以前に、自分の意見をあたかも他人の意見として述べてしまっているジャーナリストが忍び込んできているような気もします。
繰り返しますが、本書は映画という新しいメディアに対する文化評です。とは言いつつ、僕自身にとってはジャーナリストのあり方について再度考えさせられた一冊でした。
|Home / 読後感想 | |