05.09 : 椅子と机の区別もつかない?
05.12 : 身を持ってことわざを知る
05.15 : カップルに敗れ去るの巻
05.20 : 記憶力
05.22 : 映画は大人の楽しみ
05.25 : 通勤列車で読む本
東京に出てきてから、早いもので、もうすぐ2年がたとうとしているのですが、依然として生活用品がそろってないのではないかという説が、一部でまことしやかにささやかれている今日この頃。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
ともあれ、そろそろ板間生活にも飽きてきたというか、長時間座っているとヒザにくるので、適当な座椅子を探していたのですが、今日、散歩がてら近くの商店街をぶらぶらしていると、雑貨屋さんで小さな木の椅子を売っているのを見つけました。値段は980円(税別)。思わず買ってしまったのですが、僕は「椅子」だと思っているのだけど、ひょっとするとテーブルかもしれないという疑惑が持ち上がっています。あるいは、雑貨屋さんで売っていたということから、踏み台かもしれないという可能性も捨て切れません。そろそろお尻が痛くなってきました。次は、クッションを買おうと思っています。
ここ最近、どうも僕は物忘れが激しく、カバンの中から手紙が出てきて、なぜこんなものがここに入っているのか、と驚愕しつつ、よし明日こそはポストに投函しようという決意を、この1週間毎晩繰り返していたりするわけで、こういうのはカバンに入れるから忘れるのだ、出かけに手で持っていけば、絶対に忘れないだろうと思って机の上においておいたら、持って出ることすら忘れて机の上に置きっぱなしになっていたりします。
という訳で、仕事の帰り道、僕は雑貨屋さんでコルクボードを買いました。これに忘れてはいけないことをメモして、貼り付けておこうという訳です。ふふふ、これで明日から僕は、忘れ物のない完璧な生活を送るのだ! また一歩、世界制覇の野望に近づいたぜいと盛り上がりつつ、さて、問題はこれをどうやって設置するかです。
コルクボードについていた釘とチェーンで壁からぶら下げるというのが、一番手っ取り早そうですが、しかし、今住んでいるのはアパートです。壁に穴をあける訳にはいきません。どうしようかなぁと考えていると、両面テープで壁に張りつけるという案を思い付きました。うーん、冴えてる! もしかして、僕ってクール? などと心軽やかに近所の文房具屋で両面テープを買い、ダッシュでアパートに戻って、コルクボードを壁に取り付けました。
自分で言うのもなんですが、出来栄えはなかなか良さげです。一仕事終えた満足感に酔いしれながら、僕はさっそく、出し忘れが続いている手紙をクリップで挟み、それを虫ピンでボードに引っかけました。それからクリーニングの引換券を張り付け、サービス券なんかも張り付けました。
その時です。僕は重大なことに気がつきました。
これ、取り外す時、どうすればいいんだろう?
貼り付けた直後に、早くも取り外すことを考えるなんて、我ながら先見の明があるなぁと、自分で自分を誉めつつ、僕は試しにボードをはがしてみることにしました。
ボードは思っていたよりも簡単に壁から取り外せました。ついでに壁紙もはがれたということを除いては。
「愚考後悔先に立たず」、「後の祭り」 そんな言葉をかみしめつつ、夜遅く再び両面テープを求めて文房具屋に走る28歳独身男性。一体なにやってんだか。
上野の国立西洋美術館でやっている「イタリア・ルネサンス美術展」に行ってきました。
やたら人が多くて、ゆっくりと鑑賞できなかったことも痛かったですが、たまたま僕の前にいたカップルが、とんちんかんな解説をしてくれて、僕を存分に悩ませてくれました。
ヴェロッキオ工房の「聖母子」のコーナーでは、
「あー、この絵は嘘です。マリアは、こんなきれいな服を着られる身分じゃなかった」
と言い出し、「聖アウグスティヌスの幻視」では、
「この絵も、間違い。キリストは、海から全ての水をスプーンで救い出すことはできないことを言いたかったのに、川が描かれている。聖書をちゃんと読んでない証拠」
と言い出す始末。
そりゃまぁ、あなたの言う通りなんでしょうけど、でもルネサンス芸術の特徴って、聖書に忠実なところにあるのではなくて、聖書を題材にしつつも、画家達が生きていたイタリアの風俗や自然を描こうとしていたところにあるんじゃなかったっけ?
しかし、そんな僕の心の声は、物知りな彼 アーンド そんな彼に夢中の彼女には届かず、ただただ僕のフラストレーションだけが高まっていきました。
カップルなんて大嫌いだい!
どうも僕は物覚えがよくありません。特に数字関係は、自分でも笑ってしまうほど忘れてしまうというか、全然、頭に入りません。
もっとも、日常生活を送る上で、数字を覚えていないことが致命傷になるなんてことは、それほど多くないわけで、僕なんかでも支障なく生きていけるわけですが、しかし、問題は電話番号です。
自慢ではありませんが、僕は、電話番号を暗記している知人は、たった2人だったりします。加えて、
自宅に電話するのに、知人に電話番号を尋ねた
という、輝かしい(どこが?)過去を持っていたりします。
というわけで、東京で一人暮らしを始めるにあたって、僕はNTTの人に、
なるべく、覚えやすい電話番号にしてください
と頼みこみました。
ここで、覚えやすい電話番号の基準としては、
ということを挙げたいと思いますが、ともあれ、頼んだかいあって、僕の自宅の電話番号は上記の1と2の組み合わせでできていたりします。
それにもかかわらず、先日、僕は、レンタルビデオ屋の会員更新の時に、自分の電話番号を間違えて記入して、あからさまに怪しがられてしまいました。東京に来てから、もうすぐ2年が経過しようとしているのに、なんたることでしょうか。
それにしても、世の中には円周率を暗記している人がいる一方で、自宅の電話番号すら覚えられない人間がいるわけで、あらためて人間っていろいろいるんだなぁ、と思わず感慨にひたってしまいますが、ひたっている場合ではなく、もう僕も28歳になったわけで、メモを見なくても間違えずに自宅の住所と電話番号を窓口で書けるようになろうと心に誓っています。
が、しかし、今度は7桁の郵便番号という新たな強敵が出現したという説も……
遅ればせながら、アメリカ版『GODZILLA』を観ました。
映画そのものの評価は、あちらこちらでなされているので、僕が付け加えるようなこともないのですが、個人的な感想を述べさせてもらえるなら、
アメリカじゃあ、怪獣映画も成人を意識して作るのね
と言ったところでしょうか。もっとも、『GODZILLA』は、子供でも分かる単純明快なお話でしたけれど。
ともあれ、考えてみれば、アメリカ映画って、エイリアンとか、スターウォーズとか、日本で作れば間違いなく
子供向け
になりそうな題材を莫大な費用で作り上げる訳で、そういうところが、アメリカの底の深さと言うか、フランスとかイタリアの人から、フフンと言われるところなのかもしれません。
唐突ですが、失敗しました。
今、ルソーの 『孤独な散歩者の夢想』 (岩波文庫)を読んでいるのですが、ツラい、ツラい。
散歩も夢想も好きな僕としては、気楽な気持ちで買ったのだけど、はっきり言って、これを仕事に向かう列車の中で読んでしまうと、
仕事なんかやってる場合じゃないよなぁ
という気になってしまいます。帰りの列車の中で読んでしまうと、
とっとと寝てしまお
という気になってしまいます。
ルソーがなにに悩み、絶望していたのかを知ってみたいという気は十分にあるのですが、それ以上に
ゴメン、僕が悪かった、許して
と意味不明な罪悪感にさいなまれている今日この頃。いいかげん諦めて、 『ベイスターズの真実』 (矢島裕紀彦、小学館文庫)に走ろうかなぁとも思いますが、ともあれ。
通勤(通学)の列車の中で、どのような本を読むかというのは、大切なことであり、本の選択は慎重にしなければならないのではないでしょうか。
今の僕のように、朝っぱらか暗く重いテーマの本を読んでしまうと、その日一日ブルーな気持ちになってしまうので、やっぱり避けた方が賢明でしょう。そうかと言って、先日の僕のように、『爆笑問題の日本原論』 (爆笑問題、小学館文庫)のような本を選択してしまうと、満員の車内で吹き出してしまって、バツの悪いことになります。
だからといって、仕事関係の本を通勤列車で読むほど、僕は仕事熱心ではないし、歴史関係とか、その種の本って、満員の列車の中で押し合いへしあいしながら読むよりも、メモでも取りながらゆっくりと読みたいものです。
そう考えてくると、通勤・通学の列車の中で読む本というのは、
車内で吹き出さなくて、メモを取る必要もなく、
それでもって人生について考え込む必要もない本
が望ましいという結論になってしまいました。けっこうそういう本って、いっぱいありますね。もっとも、そういう本にお金を使いたいとはちょっと思わないですけど。