09.02 : してやられる
09.11 : これが私の一週間
09.25 : 関西の人 東京の人
09.29 : 姉と弟、それに祖父
どういう訳か、ここ数日、妙に仕事が忙しい。
今日も、きりのいいところまでと思っていると、結局、1時をまわる。一度、仕事のやり方を見直した方がいいのかもしれない。
などと神妙なことを僕が考える訳もなく、とりあえず仕事が終わったら、今日も仕事が終わったぜい! と反省もなにもなく、家路につく日々が続いていますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。
と言う訳で、今日はタクシーで帰った訳ですが、帰る道々、運転手の人と、取り止めもない話題で盛り上がる。お題は、
関西と関東の乗客の違い
一部で、関西の乗客は、非常にたちが悪いという説があります。例えば、タクシーの運転手は道を知っていて当然という態度をとる、メーターがあがりそうになると目的地に着いていないにもかかわらず、突然降りると言い出す等など。これに対して、関東の乗客は、運転手が道を知らなければナビゲーター役を務め、目的地に着くまでおとなしく乗っている等など評判がいいのだそうです。
いわれてみれば、思い当たる節もある訳ですが、しかし、このタクシードライバー歴30年のベテラン運転手は、こうした説を俗説だときっぱりと言いきってくれました。むしろ、彼によると、関西と関東の乗客の最大の違いは、
関東のお客さんは、こちらから水を向けない限り、あまり話したがらないが、
関西のお客さんは、乗ってくるなり実に楽しそうに話し出す
ことなのだそうです。嬉しいことを言ってくれますねぇ。お返しに、
関西の運転手は阪神が負けていると荒っぽい運転になるが、
関東の運転手は巨人が負けていてもいつもと変わらない。
などなど、くだらないことを言う。
そんなこんなで、東西の乗客と運転手の差異に関する馬鹿話で盛り上がりつつ、そろそろ家に着くという時に、運転手が思い出したかのように言い出しました。
「そうそう、忘れてました。関西のお客さんの一番の特徴は、支払いの時に気前がいい」
やるな、おぬし。
久しぶりに、「NIGHT ON EARTH」を観る。相変わらず、ウィノナは可愛い。ともあれ、目を開けた盲人という設定は、何度見ても感心させられる。日本では、障害者を、とかく美しいものとして描こうとするきらいがあるが、あれはいかがなものか。
先日依頼を受けた用語集執筆の件について少し構想を練る。読者参加型というのはどうだろう。最近のオープンソース・ムーブメントの流れにも合致しているし、面白いのではないだろうか。読者が知りたいと思っていることに応えるという目的も達成できるし。それになにより、ネタの洗い出しという一番大変な作業がなくなるので、僕が楽できそう。まさに一石二鳥。我ながらいい考えだと満足し、銭湯に行ってから寝る。というわけで、原稿の進捗状況は0。こんな調子で、はたして締切に間に合うのか。
ある人から電話。結婚するとのこと。おめでとう。ほっとするような、淋しいような、不思議な気分。
某計画に関して会議。ほとんど進展はない。大丈夫か? ボスは、こういうことは誰かが強引に進めないとダメだと言う。ごもっとも。ただ、独自規格を用意して、さぁ使え、という時代は終わったのではないだろうか。もっとも、合議制で決まった規格にろくなものはないという気もするけれど。この辺りが今回の計画の難しいところなのだろう。
消費者契約法(仮称)に関する通産省の説明会に出席。なんか要領を得ない。産業界、学会、消費者すべてから反発を買いそうな気がする。誰も得をしない規制なら、ないほうがいいのに。
原稿執筆について簡単な打合せ。読者参加については、条件付きで認められそう。やったね! ついでに締切も9月末にのばしてもらう。さらに、やったね!
大リーグ、1000奪三振、おめでとう > 野茂
試合の結果はどうなった? > マスコミ
シンポジウムの内合わせでフロム・ソフトウェアの神社長のところに行く。典型的なベンチャーの社長といった感じで、色々と意見を持っていそう。それにしても、この業界は本当に若い。それが長所でもあるし、危険なところでもあるのだろう。
遅めの夕食をとりつつ、ファミレスのカウンター席で原稿を書き始める。ところが、WindowsCEに塔載されている IME の頭の悪さに辟易して、すぐに投げ出してしまう。やっぱり、VAIOのカメラ付きが欲しい、11月に出るFIVAでもいいなと思っていると、隣に座っていた女性が、さっそうとバッグの中から取り出したのは、Librettoの新しいもの(カメラなし)。かっこいい!
10時ごろ目が覚める。職場に行って仕事を片づけてから有楽町へ。マリベスと Kendall Payne のCDを購入。八重洲のブックセンターで本を購入。
廣田傳次郎 『情報処理論』 (中央経済社、1998)読了。それほど面白くなかったけれど、大学の教材としてはいいのではないかと思う。小松成美編 『中田語録』 (文春文庫、1999)読了。丸谷才一 『青い雨傘』 (文春文庫、1998)読了。
夕食中、知人との間で、ホモで話題になっている歌手の話が出る。個人的には、同性愛であろうが、SMであろうが、個人の問題なので別に構わないけれど、それよりも、僕が、話題の人物と「必ず愛は勝つ」と言いきった人物とを今日の今日まで同一人物だと思っていたことが明らかになり、衝撃を受ける。別人だったんだ。
一ヶ月前に大阪から出てきたばかりという女性と、ひょんなことから夕食を一緒にした時のことです。
こういう場合、ご想像の通り盛りあがるのは、東京人に対する悪口でして、突っ込みが甘い、話に落ちがないなど他愛ないことから始り、二人とも少しお酒が入っていたこともあって、とてもここには書けないような罵詈雑言まで、日頃のうっぷんや東京での一人暮らしの不安などを大いに晴らしていたのですが、そんな中、東京の人はどうして、あんなにも一糸乱れぬ行動を好むのだろうということに話が及びました。
例えば、マクドナルドや吉野屋のようなファストフードなんかの店員の統一された対応って、東京の人は、「そういうもの」と割り切っているのでしょうが、僕は苦手です。あと、チェーン展開をしている居酒屋なんかで、店員に声をそろえて挨拶されると、テレくさくて、思わずその場から逃げ出したくなるのですが、これまた東京の人は「そうされて当然」と平然と席に付きます。
昔から日本では、「雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし」と言いますが、東京の人って、そうした古式ゆかしい情緒を大切にしているのでしょうか。僕はどちらかというと、「からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐ」方が好きなのですけれど。
小さなレストランで、若い夫婦、その小さな2人の子供、そして祖父が夕食をとっていました。それほど広くない店内のことですから、よく通る子供達の話声は、どこの誰の曲かも分からないBGMより、はるかに客の心を和ませていました。
客達は、子供達の他愛ない話を聞くともなしに耳にしながら、休日最後の遅目の夕食を、それぞれに楽しんでいました。
その時です。
なにかのきっかけで、幼い姉と弟は、どちらが1番かで小さないさかいを始めました。
こういう場合、一般的に弟は不利です。なにしろ相手は、1年か2年とは言え、人生を長く経験しています。このぐらいの年頃では、1年か2年の差は、決定的な語彙の差につながり、口喧嘩の場数でも、幼稚園に通っている姉の方が、家で母親としか接していない弟よりも、圧倒的に経験豊富です。加えて、相手は幼いながらも「レディ」です。むくつけき男性が勝てるはずもありません。
しかし、この時ばかりは、弟もそう簡単に引き下がりませんでした。一言いえば、10倍ぐらいになって返ってくる姉の言葉に対し、弟は、小さなこぶしを握り締め、黒目がちな大きな目に涙を浮かべながらも、懸命に食い下がります。
店内は、この二人の争いの行方にハラハラしつつ、無事仲直りしてほしいような、もっと聞いていたいような、相反する気持ちで聞き耳を立てていました。
結果から言えば、勝利をおさめたのは、やはり姉でした。弟は、不承ぶしょう2番という地位を受け入れることになりました。
店内の緊張が解け、再び、客達はそれぞれ自分達の世界に戻って行きました。ある人は、二人が仲直りしたことに満足しながら、ある人は、自分の立場に重ねあわせつつ、弟の敗北にちょっぴりがっかりしながら。
ところが、やはり2番に満足していなかった弟は、最後の抵抗を見せました。勝ち誇る姉に、こんな質問をしたのです。
「それじゃあ、おじいちゃんは何番?」
姉と弟の熱い視線を受け、それまで黙って事のなりゆきを見守っていた老人は、威厳あふれる態度でゆっくりと口を開きました。
「じいちゃんが、1番だ」
おいおい、それって元の木阿弥やんという周囲の声なき突っ込みを受けつつ、事態は三つ巴の戦いという新たな局面を迎え、ますます興味深くなりましたが、そろそろ閉店の時間です。この続きは、また後日。