著者 | マックス・ピカート | ||||
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タイトル | 沈黙の世界 | ||||
出版社 | みすず書房 | 出版年 | 1964年 | 価格 | 2400 |
評価 | ★★★ |
この項はキニャールの『舌の先まで出かかった名前』の続きです。
縁というのは面白いもので、なにかに関心を持っていると、ひとりでに向こうから必要なものはやってきてくれるものです。アンテナさえちゃんと立てておけば、面白い物事はいくらでも入ってきますよ > Nさん
もっとも、最近の僕のアンテナはさび付いているようですけれど。
ともあれ。
キニャールの『舌の先まで出かかった名前』を読んで「言葉を発すること」について考えさせられていたちょうどその時に読んだのが、ピカートの『沈黙の世界』でした。
本書は沈黙へのオマージュです。沈黙の持つ意味の再構築こそが本書の目的です。
冒頭、ピカートは「人間が人間として存在し得るのは、言葉によるのであって、沈黙によるのではないのである」として、本書が決して言葉を否定するものではないことを強調しています。しかしながら、それ以上に沈黙は重要な役割を持つと指摘します。
ピカートは、
「沈黙は、現代の効用価値の世界にすこしも適合するところがない。沈黙はただ存在しているだけである。それ以外の目的はなにも持っていないように思われる。だから、人々はそれを搾取することができないのである」
と指摘し、その上で、沈黙はかつて世界を覆い、その沈黙によって人々は精神的な充実と安息を得ていたと主張します。
例えば、かつて沈黙が世界を覆っていた頃、知識もまた沈黙の世界の存在であった。しかし今日、喧噪がそれに取って代わり、知識は求めるものではなく、向こうから迫ってくるものになってしまった。それによって我々は知識が人間的な充実の糧ではなく、知識に対して強迫観念を持ってしまうようになったとピカートは指摘します。
あるいはまた、今では沈黙は死や病やそれに伴うあらゆる悪しきことへの連想とつながっている。しかし本来、沈黙は安息であり、死の床の沈黙でさえ最後の安らぎであったとも指摘します。
このようなピカートの沈黙への賛歌は非常に賛同できます。ただ、どうなのでしょう。沈黙は、あらゆる存在への、あるいはまた存在からの厚い壁となるように僕には思えます。それはまさに沈黙が真空ではなく、存在そのものであることからくることなのですが、ピカートはそれを是とし、僕は否とします。
発するに値する人が発するに値する言葉だけの世界。それはキニャールの『舌の先まで出かかった名前』を読んでいたときにぼんやりと感じていた反感でした。僕達は、いつでも、誰もがどのようなことでも言える(それはどんなに馬鹿なことであったとしても)世界を好ましく思います。賑やかな方が楽しいですし。