11/02 : 妄想という名の列車
11/08 : 展覧会
11/11 : 小市民と小動物について
11/12 : 晴れても寒い
11/25 : たまには日記を
大阪で開かれる学会に出席するため、仕事が終わってから、大急ぎで東京駅へ。
新幹線に乗ると、車掌のアナウンスが放送される。曰く、どこの駅に停まる。何時に停まる。それでもって、運転手は誰だ。車掌は俺だ。何号車に食べ物が置いてあるから、食べに来るがいい。来るのがおっくうであれば、売り子の女性が、いまから席までいろんな物を持って売りに行くので、それを買えばいい、などという意味のことを言う。しかも、ご丁寧なことに、英語バージョンまで放送した後、新幹線は、いよいよ本格的な加速を開始する。
そうこうすると、車掌が車内に入ってきて、切符の確認をするのだと乗客に告げる。切符を出せ、さもなくば叩きおろすぞ光線を飛ばしながら、車内を徘徊し始める。この車掌、なかなか年期の入った人物らしく、寝ている人はたたき起こすわ、席を立とうとする人物には「俺が行くまで待て!」と睨みをきかせるわと、なかなかすさまじい検札ぶりであった。
車掌が去ると、先ほど放送された売り子の女性が入ってくる。曰く、「アイス食え」、「弁当食え」、「珈琲飲め」、「土産物を手に入れるべきである」などと、入れ替わり立ち代わりやってくる。一体何人いるのかしらん、と数えようとしたのだが、なんか全員同じような顔に見え、もしかしてクローンなのかも、などと馬鹿なことを考えていると、名古屋につくから、さっさと降りろ。次は京都まで停まらん、という意味の放送がかかる。
当初の予定では、京都に着くまでに、明日の発表の資料に目を通しておくつもりだったのに何も読めていない。いかんいかん。と資料を読もうとすると、車内の電光掲示板に、和歌山の市役所職員に補欠合格した代わりに、100万円が市長に支払われたとか、支払われなかったとかのニュースが流れる。さて、市役所職員の席を確保するのに、100万円は、はたして高いのだろうか、安いのだろうかなどと、不謹慎なことを考え出す。
さらに、42億枚もの年賀状が売り出されるのだというニュースが表示される。
42億枚!
現在の日本の人口が1億5千人だとしても、1人あたり
28枚も書かなければいけない!
どないすんの。そんな書かれへんて。と早くも泣きが入りつつ、列車は京都へ。いかん。本当に何も資料を読めなかった。
日展に行った。
暖かい行楽日和だったということもあってか、観客は多かったものの、それでも混雑して作品を見ることすらままならないというほどでもなく、のんびりと秋の午後を過ごすには、うってつけであった。
などと、いきなり芸術の秋めいた話で始まりましたが、偉そうなことを言えるほど僕は美術の知識があるわけでもなく、
「この作品は僕の性に合ってる」
「この作品は僕の性に合ってない」
というレベルでしか、作品を観ることができないのですけれど、それはともかく。
日展というのは、数ある作品コンテストの中でも、比較的権威のあるもので、この展示会に出展できるかどうかで、ある筋の人々は悲喜こもごもといった状態になるのだそうです。この辺りのことは、僕もよく知りませんが、以前、僕の知る範囲でも毎回日展に作品を応募している人がいたので、
「恐るべし日展!」
と思ったものでした。幸い、僕が観に行ったときには、
「なぜ私の作品が選ばれなかったのか。くやしー! こんな作品、こうしてやる」
と破壊行動に出る人がいなかったのですが、裏ではやっぱりドロドロしたものがあるのだろうなぁ、あぁ、そう言えば、
「館内でボールペンとか万年筆を使うな!」
という張り紙があったけれど、あれはやっぱりそういうことを警戒しているのであろうか、と妄想をたくまししていたのですが、ともあれ。
僕自身、最初に書いた通り、お世辞にも美術の知識があるとは言えず、だいたいこの種の展覧会に行くのは、
「美術的な興味」
というよりは、むしろ
「人間的な興味」
だったりします。
実際、「絵を描いたり彫刻を彫ったりすることで一日を過ごしている人がいる」というのは、僕にとってちょっとした驚くべきことだったりします。出来栄えが良いとか悪いとか以前に、そうした行為にひたれること自体が、僕には大変不思議なのです。そして、そういった人々にとって「世界がどのように見えているのか」を知る手がかりが、僕にとっての展覧会に行く目的だったりします。
たとえば、都会の高層ビルを描いた作品。今回の展覧会でもいくつかありましたが、それらは「限りなく黒に近い灰色」か、「限りなく白に近い灰色」で塗り込められていました。いずれにせよ、高層ビルのある風景は、かぎりなく単色に近いのです。現実には、都心部になればなるほど、それぞれのビルは、それぞれ個性を持ち、自らのオリジナリティを主張すべく、形を変え色を変えしているのですが、それを描こうとする人々の目には、そうした違いはほとんど気にならないようです。
僕は、だからといって彼らの描いたビル街に「リアリティがない」などと無粋なことを言うつもりはありません。彼らにとって、そうした無個性なビル群こそが「現実」なのだろうと思います。
僕にとって興味があるのは、まさに「こんな風に世界を見ている人がいる」ということなのです。僕とは違った世界を観ている人がいる。もちろん、誰だって僕とは違う世界を観ており、おそらく僕とは違った世界に生きているのでしょうが、それを明確に教えてくれる場所が、僕にとっての展示会なのです。
ともあれ、今回の展示会で面白かったのは、輪郭がぼやけ、色と色とが混ざり合い、対象と背景が判然としない絵が多かったことでした。依然として芸術家にとっての世界は曖昧模糊とした中にあるのかもしれません。
今日は11日。小市民的には、11月11日と数字が重なっているので、なんとなく特別な日。来年は、多分、もっと盛り上がるのだろう。
それはともかく。
カレル・チャペック、『ダーシェンカ』(新潮社)読了。
チャペックについては、いろいろ思い入れがあるので、ここでは触れませんけれど、それはさておき、僕は動物が嫌いではありません。
「嫌いではない」などと、消極的な態度をとるのは、これまでいろいろな動物を飼ってくるなかで、動物って、結構面倒くさいし、大変だし、それになにより、普通の人間が飼う動物って、小動物が多いためか、少なくとも僕より先に死んでしまい、動物に限らず死に直面するってのは、あんまり気分のいいものではないし、などなど複雑な感情があるからなのですが、ともあれ、この『ダーシェンカ』には、27歳の男性としては、不覚にも、
かわいいい!
と思ってしまったことを告白しなければいけないことに、若干の気恥ずかしさを感じる今日このごろ。
西垣通『デジタル・ナルシス』(岩波書店、1991)読了。コンピュータの技術思想史として、よくまとまっていると思う。
コンピュータが、他の道具や機械と果たして異なるのかどうか、僕にはまだ判断がつきかねるのだけれど、少なくともこれほど屈折した愛憎を覚える「モノ」は珍しいとは思う。
コンピュータを嬉々として利用している(ように思える)人の態度を見ていると、彼(もしくは彼女)が、コンピュータをあたかも自分の体の一部であると思っているのではないかと感じることがある。そういう意味では、自慰行為に通じるところがあるのではないかと思うこともある。
これを書いていて思ったのだけれど、これだけコンピュータ・ネットワークが普及し、「開かれた」にもかかわらず、コンピュータを利用することに、なんとなく閉鎖性を感じるのは、僕の中で上記のようなイメージがあるからかもしれない。もっともこれは、僕がコンピュータをうまく使えないことのヤッカミかもしれないのだけれど。
ともあれ、コンピュータを利用するというのは、情報をデジタルなものにして、それを操作することだという前提に立った場合、そこにナルシスト的な行為態様が表れてくることは、確かにあると思う。ただ、それがコンピュータを利用すること自身が、既存の形式を突き破っていくダイナミズムをもっているからといわれると、ちょっと首をかしげてしまう。もっと形而下的な理由によるんじゃないかなぁ。うまく言えないけれど。
ここ数日、風邪気味のため、なんとなくけだるい日々が続いている。
西桜印刷 W 氏と会報についての打合せ。やはりこういうのは、本職に任せた方がいいのかもしれない。
NTTリースの Y さんが担当替えとのことで、後任の方を連れて来る。お世辞にも出来のいいクライアントとは言えないことばっかりして迷惑をかけていたので、敬遠されたのじゃないかと、ちょっと反省。今後は、もう少し聞き分けのいい客になろうと思う。
京都リサーチパークの M 氏来訪。ゲームアーカイブの進捗状況について説明を受ける。ゲームのデータベース化というのは、非常に魅力的に思うのだけれど、実際にやるのは、かなり大変そう。でも、楽しみ。
アクレイムジャパンの H 氏より電話。翻訳作業は完了したか、との問合せ。まだでございます、お代官様。とりあえずリミットとして、12月1日が提示される。さて、間に合うのだろうか。自信は全くない。