04.02 : ショーより素敵な商売はない
04.07 : シーザーサラダの逆襲
04.11 : 東京タワー
04.12 : 集結せよ!B型人間
04.15 : 謎の喫茶店
04.20 : これはビル君への愚痴です
04.22 : 美術館ではお静かに
04.25 : 視力
04.29 : 阪神タイガース哀歌
04.30 : ヴェネツィア絵画展
先日、ダンサー志望の女の子から電話がかかってきました。とうとうオーディション出場にまでこぎ着けたのだそうです。おめでとうございます!
僕は基本的にリズム感がないので、ダンサーの世界というのはよく分からない世界の一つなのですが、ダンサー志望の女の子の話を聞く限りでは、結構大変そうですね。
まず、当然ながらダンスができないといけない。これは当然として、それ以外にも髪の長さ、食事などについてもかなり厳しい条件があるようです。それよりも何よりも、驚いたのが、
「体重をあと5キロ落とさないといけないのよね〜」
という彼女の言葉でした。
マジっすか!
彼女は、まだ20歳になったところなのですが、決してぽっちゃりしているとは言えず、手足なんかを見ると、「細い!」と思ってしまうぐらいです。僕は、女性の年齢と体重は詳しく聞かないようにしているので、実際の所は分からないのですけれど、それでも、体重は僕とどっこいどっこい(ちなみに、僕は現在48キロ)ぐらいじゃないかと見ています。その彼女が、5キロの減量! それで激しい踊りをこなさなければいけないわけで、体力がもつのかと正直心配になります。
30歳を目の前にして最近、僕自身は体力の低下を実感している今日この頃。実際の所どうなんでしょうね。ある程度の脂肪って絶対必要だと思うのですけれど……。
かなり以前、この東京日記で問題提起した「シーザーサラダ」の「シーザー」とは何か?
結局、そのままになっていた問題について、Mickさんからメールを頂きました。
Subject : シーザーサラダとは? |
シーザーサラダとは、結局なんだったんですか? ちなみにわたしは、手でちぎって作って手がはさみの代りということで、シザーサラダと思っていました。 是非御返事ください。 |
まもなく30歳になるわけで、人間歳をとると、こういう日常のささやかな疑問をないがしろにしてしまうようになるのは良くないことです。
などと珍しく反省をしておいて、さて、「シーザー」の問題です。
以前の日記でも書いたように、シーザーサラダには、「シーザー」という名前の食べ物が入っているわけでもなく、カエサルの好物だったわけでもなく、まさに
「謎は深まるばかり」
そこに今回 Mickさんからのメール。決まりです。少なくとも、この東京日記では、
「シーザーサラダは、やっぱり『シザーサラダ』が正しかった」
という説を採用します。
Mickさん、ありがとうございました。
今年も、盛況のうちに終わった恒例の谷中の花見。今年の参加者は、お子さまも含めれば50人を超える大所帯で、大変に盛り上がりました。ちなみに、途中完全にできあがっていた冨倉は、熟睡していたという説もありますが、それはともかくとして。
このお花見の最大の特徴は、
知らない人がいつの間にか仲良くなっている
実際、このお花見の主催者であるあっこさんの夫でさえ、初めて会う人の方が多いということからも、この会のユニークさが裏付けされているといえましょう。
ともあれ。
この花見に参加することについて、僕の楽しみの一つは、寒空はだかさんの宴会芸の数々が見られることです。いいんすよ、これが。
今年も桜舞う中、真空ギターをかき鳴らし、「俺は殺し屋デンジャラス」「東京タワーの歌」などを熱唱されました。脱力感満点で素晴らしくいい出来です。最初目が点になっていた飛び込みの(正確には、通りがかったところを若手(?)3人組によって引きずり込まれた)女の子3人組も、最後は手拍子を叩いておられました。
このあっこさんの夫が主催する谷中の花見は、来るもの拒まずという精神の持ち主ばかりがそろった実に楽しい花見です(でも、日程の調整が付かず、花ではなく枝見になることもしばしばですが)。来年もやりますので、興味のある方は是非ご一報ください。
言いたい放題の文章を書き続けている東京日記。皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、B型人間の性格についてです。どうも世間一般的に、あまり芳しい評価を受けておらず肩身の狭い思いをしているB型(もっとも、B型人間は周囲の評価を気にしていないのでしょうけれど)。
それにしても実際のところどうなのでしょうね。B型って、世間がいうほど自分勝手でも、気分屋でも、性格がお子さまでもないんじゃないでしょうかと知人にたずねると、
よそ様のことはしらん。でも、あんたが言うな!
と戒められてしまいました。そうですかねぇ。僕は、生真面目を絵に描いたような人間っすよと言うと、
けっ
と取り付く島がなくなってしまいました。納得いかん。
そんなある日、Hさんから、典型的なB型の行動パターンについて、詳細なレポートが送られてきました。Hさんのレポートによると、
まるっきり当てはまってしまう自分が悲しい……。
追記
Hさん、メールありがとうございました。シーザーサラダについても、引き続き調べます。
どうもこれは祖父譲りらしいのですが、僕は子供の頃から、家でじっとしていられない性分で、30歳になった今でも休みの日ともなれば、特に目的もなくふらふらと外出して、夜遅く帰ってくる生活を送っています。
さて、御徒町の喧噪を避けて、しばらく行ったところに、小さな喫茶店があります。2年前のある夏の暑い日に、ふらっと立ち寄ってから、上野に一人で遊びに行った帰りには、なるべく立ち寄るようにしています。
店内は、こぢんまりを通り越して、「狭い」としか言いようがない(席数は、カウンター席を含めて8席)ような店で、老齢の上品な感じのするおばあさん一人で切り盛りしておられます。おばあさんの上品さを反映し、女性らしいアクセサリーが店内を飾っていて、こぎれいと言えばこぎれいなのですが、しかし、なぜかジャイアンツのポスターとか、大相撲カレンダーが貼ってあったりするので、統一感があるんだかないんだかよく分からないところも好感を持てます。
おばあさん一人で切り盛りしているため、足を運んだところ本日休業だったり、昼間やっていたなぁと思って、夕方立ち寄ると、本日終了なんてこともしばしばあります。
いつ行っても、僕一人しか客がいないので、好きなだけいても文句を言われないところも、僕好みです。ただし、ここでは本を読めません。というのも、おばあさんが大変人なつっこい方で、いつ行っても、とりとめもない話で、盛り上がってしまい、とても本を読んでる場合じゃないっすよという状態になってしまうわけです。
これだけなら、僕のお気に入りの喫茶店の1つでしかないのですが、このお店は、少々謎な部分があります。
というのは、この喫茶店は、会員制なのです。今まで、それなりにあちこちの喫茶店に出入りしましたが、会員制の喫茶店は初めてです。
「私も、もう年でしょ。だから、好きなお客さんだけが来てくれればいいんです。全然知らないお客さんが、たくさん来られても困ってしまうだけ。だから会員制にしているの」
と、おばあさんは言います。それはそれで一つのあり方なのかもしれません。ただ、おばあさん、僕は依然として会員じゃないんですけど、いてもいいんですかねぇと言うと、
「たまには、若い学生さんのお客さんがいるのも楽しいから」
とおっしゃられました。おばあさん、僕はもう学生じゃないです。
先日、冗談でLibrettoにLinuxをインストールしてみたところ、思っていた以上に安定しているので、結構気に入ってしまった冨倉です。皆様いかがお過ごしでしょうか。でも、依然としてLinuxでモデムを認識させる方法が分からないので、この東京日記はWindows上で作成しているのですけど。
ともあれ、Windowsのトラブルの多さに、最近少々辟易しているというのが正直なところです。
僕は高校から大学院まで一貫して文系(正確には社会科学系)の学部に属していたような人間で、数学とか理科は苦手な分野のひとつです。パソコンも大学に入ってから使い始めたぐらいなので、お世辞にも「パソコンに詳しい」とは言えません。
そのため、パソコンがトラブルに見舞われると、
「おいおい、まじかよ」
という気持ちになってしまいます。特に仕事で使っている場合、パソコンがトラブって仕事ができなくなるなんてことは悪夢以外のなにものでもありません。そんなわけで、どんなに便利そう(あるいは面白そう)でも、安定している環境を捨ててまでシステムのバージョンアップをしないことにしているのですが、それでも、トラブルが多発するわけで、思わず「ビル〜」と悪態を付きたくなります。
Windowsの最大の失敗は、「ユーザーはコンピュータに詳しくない」という前提で作られているにもかかわらず、あまりにも容易にシステムの変更(アプリケーションのインストールも含めて)がユーザーレベルでできてしまうことにあるのではないかと思います。
そこへもってきて、Linuxの安定さ! 思わず、こっそりと職場のPCすべてに、Linuxを入れちゃおうかと悪い考えを起こしてしまいました。もっとも、本当にやるとすぐ非難の大嵐にあうことは必定なので、やりませんけれど。
でも、最近、本当にトラブルが多すぎると思う……。ビル君、XPなんてリリースしなくていいから、Windows95の安定版を出してほしいっす。
国立西洋美術館で開かれている「イタリア・ルネサンス展」に行ってきました。
僕は美術史を専攻していなかったので、詳しいことは分かりませんが、中世の宗教上の軛を振り払い、「見えなければならないように描く」ことから、「見たいものを描く」ことへの転換、「背景としての風景」という地位に甘んじていた風景描写が、より主体性を持つようになる過程が実によく分かって、大変興味深いものでした。関心のある方は、季候もいいことですし、ぜひ一度上野に足をお運びください。
ともあれ、二人してやや興奮気味に美術館を出て、しばらく歩いていると、知人が、
「結構ムッとしてたでしょ」
と言いました。別にムッとなんかしてないっすよ。ムッとするようなことなんてなかったですし、と僕は答えました。しかし、知人は、「いーや、あんたは絶対ムッとしてた」と言い張ります。知人に言わせると、僕は内心がすぐに顔に出るタイプなのだそうです。そんなことないっすよ。もう30歳。それなりにポーカーフェイスを決め込む術は知っているつもりなんですけど……。
しかし、正直に言うと、美術館の中で、僕は結構ムッとしていました。ムッとさせられた対象は、僕の前後にいた二人連れのおばちゃんと、若いカップルです。これが美術館の中で、まぁ、しゃべるしゃべる。
別に、美術館の中で話すこと自体は、それほど悪いことだとは思いません。難しい顔をして黙々と作品を鑑賞するよりも、肩の力を抜いて、気ままに感想を言いながら鑑賞するスタイルって大好きです。しかし、この二組に関して言えば、
「だーっとれ」
と思わず関西弁で悪態を付いていたりします。
と言うのも、おばちゃん二人組の若くて太っている方と、若いカップルの男性が作品の解説というか見るべきポイントを同行者に話していたのですが、これが美術に詳しくない僕が聞いても、どうも的はずれなんですね。例を挙げれば、こんな具合です。
数々の受胎告知を描いた作品では、キリストは私生児で、キリスト大したことない説を蕩々と語り出します。キリストが大したことないというのは同感ですが、でもそれは私生児とは全然関係ないと思います。
『シニョリーア広場でのサヴォナローラの処刑』を描いた作品の前では、「魔女裁判って、すごいんだよ。有無を言わさずだからね」と言い、自分の博学さを語り出します。でも、違うっすよ。この絵で処刑されているサヴォナローラは、政変によって権力を失った結果だったはず。
さらにまた、「聖何某」を描いた作品が多いことについては、「この時代は、セイントと言う名字が一般的だったんだ。日本で言う田中とか山本と同じ」と、得意げに語ります。 まさに、
脱力感一杯
で打ちひしがられる冨倉。
確かに、美術とか芸術を肩肘張って鑑賞するのはどうかと思いますけど、したり顔で蘊蓄を語るのもどうかと思います。美術館ではお静かに。
僕には悪い点がたくさんあります。あまりにも悪い点が多すぎるので、自分でもいちいち数え上げませんが、目が悪いことはその中でもかなり上位にノミネートされます。最近は、正確に裸眼の視力を計る機会ってないのですが、左右両方とも0.1ないのは確かです。
さて、知人も目が悪いのだそうで、両方とも0.3と胸を張って言います。別にそんなこと自慢するようなことじゃないと思いますけど。
そんな知人が眼鏡をかけるのは、映画館や展覧会に出かけたときや、車の運転をするときぐらいです。
日常生活に支障ないっすかと僕がたずねると、あっさり「ないよ」とのこと。しかし、時々、列車の切符を買い間違えたり、マクドナルドで値段を見間違えたりしているのは気のせいでしょうか。
こう言うとなんですが、知人は眼鏡をかけたからといって、人相が変わるタイプではなく(美人になることもなくと言うとひどい目にあわされるので、口が裂けても言いませんけど)、その種の事を気にするタイプでもなさそうなので、なぜ眼鏡をかけないのか思い切って聞いてみました。
知人曰く、
「別に普段じっくり見たいと思うようなものってないっしょ」
けだし名言。ただ、じっくり見たいと思わないものの中に僕も含まれているところは、ちょっと無念。もっとも、鑑賞に堪えるような容姿でないことは確かですけど。
東京に出てきてから4年。すっかり標準語を話せるようになったというのは、さすがに自分でも言いすぎだと思いますが、それでも以前に比べればずいぶん標準語で話せるようになれたと思うのですが、いかがでしょうか。ダメっすか。
しかし、今日は最初に謝っておきます。関西弁の分からない方、ごめんなさい。今日の東京日記は、阪神戦を見に行った関係上、関西弁となっております。
と、いちおうエクスキューズを取っておいたところで、ほないくで。
阪神ファンは、試合の結果にあまり頓着しない。勝とうと負けようと、試合が面白けりゃ、それでええんよ。万年最下位? それがどないしたちゅーねん。かめへん、かめへん。広島とか中日になんぼ負けようと、10連敗しようと、そんなんちっちゃいことやさかい気にせんでええ。せやけど、ジャイアンツ戦だけは勝たなあかん。ジャイアンツ戦で力使い果たして、他のチームに負けるんやったら許したる。
おそらく、85年以前からのタイガースファンなら、この意見に納得していただけるでしょう。実際、85年までの阪神の野球はいろんな意味で面白かった。
例えば、7回裏の攻撃が終わって、8対1。もちろん阪神リード。そこでテレビ中継が終わり、KBSラジオ(あるいはABCラジオ)に切り替える。興奮気味のラジオのアナウンサーの実況。8回表の相手チームの攻撃、1点を返される。なおワンナウト1、3塁のピンチ。ピッチャーうなずいて、セットポジションから投げた。バッター打った。セカンド正面。4、6、3のダブルプレー! というところで、ラジオ中継が終了する。
ここで他球団のファンであれば、ハラハラしながらも、少なくとも試合の結果については、ある種の安心をもって就寝できるでしょう。
しかし、阪神ファンはそうはいかない。8回の相手チームの攻撃が終了して6点差。普通なら勝ったも同然というこの状況であっても、翌朝、新聞のスポーツ欄を見ると、
負けとるやん!
ということが、ママあったのです。まさに、
野球は9回裏3アウトまで分からない!
ことを身をもって教えてくれる阪神タイガース。そんな阪神タイガースが僕達は好きだったのです。
ともあれ、当時の阪神の野球は緻密さのかけらもない、とにかく打つ。打たれる。打球が飛ぶたびに一喜一憂できるという大変牧歌的なものでした。8回表、3対3の緊迫した場面で、1アウト3塁の場面。今なら当然のようにスクイズということになるのでしょうが、ここで阪神は違いましたね。代打、浪速の春団治こと川藤。やる気満々で登場した彼は、数分後、豪快な空振りでベンチに下がることになります。そんな阪神をヤジを飛ばしつつ、僕達は応援し続けました。
ところが、阪神が優勝してから、どうもおかしくなった。なんというか、勝つことに執着してしまったんですね。選手が勝つことに執着したのなら、阪神は強くなったのでしょうが、タイガースの選手は相変わらずタイガースの選手で、勝とうと負けようとあんまり気にせーへんという態度のままでした。勝つことに執着してしまったのがファンだったことが、その後の阪神タイガースを、なんとなくこじんまりしたチームにさせてしまったのではないかと僕はにらんでいるのですが、どうでしょうか。
僕の推測が当たっているかどうかはともかくとして、行ってきましたヤクルト・阪神戦。場所は神宮球場。
知り合いからもらったチケットは、一塁側席。つまりヤクルト側の応援席です。
行く前、不安がなかったといえば嘘になるでしょう。敵地のしかも相手側の応援席で阪神を応援しなければならない。これほど心細いことはありません。
ところが。
やはり阪神ファンは健在でした。
相手ホームにもかかわらず、応援席は僕のひいき目が入っているにせよ、阪神ファンの方が圧倒的に多かった。しかも、類は友を呼ぶのかどうか、僕の陣取った席の周囲は、一塁側にもかかわらず、なぜか阪神ファンが大半を占めていました。
そんなわけで、初回から応援のボルテージは上がります。我々の周囲以外は東京音頭にあわせて傘をふっていましたが、そんな彼らをものともせず、阪神の選手に声援を送っていました。6回の頃には、アルコールですっかりできあがっていたこともあって、まるで三塁側応援席にいるかのような(半ばやけ気味になりつつ)態度で歓声を上げる、ヤジを飛ばすといった有様でした。
ちなみに、試合の結果は6対0の典型的なワンサイドで阪神の負け。無念。
もともとヴェネチアは、北方の蛮族の侵入に追われた住民が、イタリア半島の付け根にあった小島に移り、そこを少しづつ拡張したという土地柄か、ルネサンス期のイタリアの中でも独特の歴史を歩みました。
マキアベリの体制論で言えば、外的な圧力によってやむなく作られた共和国の典型と言うべきヴェネチアは、古代ローマ時代から独裁制に対する警戒心が強いイタリアにあって、終身統領を立てることに、それほど躊躇しませんでした。その終身統領の下、時代はちょうど地中海貿易が盛んな時代であり、ヨーロッパ諸国と、宗教的に決して相容れないはずのオスマン・トルコとの中継貿易によって経済的な繁栄を享受したのです。もっとも、彼らが経済的繁栄だけではなく領域国家としての拡大を画策した途端に、繁栄の時代が終焉に向かったことは非常に示唆に富んでいると思うのですが、それはともかく。
能書きはこのくらいにして、ルネサンス・イタリア放浪と言うわけでもないのですが、先週に引き続き、今週は上野の森美術館でやっている『ヴェネツィア絵画展』に行ってきました。
期待が大きすぎたことは確かにあるのかもしれません。ただそれを差し引いても、ちょっと残念でした。見るべき作品がなかったわけではないのですけど、今一つ物足りなかったというのが正直なところです。
ある特定の作家に対象を当てた場合でも、ある地域に対象を当てた場合でも、あるいは特定の分野に対象を当てた場合であっても、一同に並べることによって、個々の独立した作品の連関が分かるところが、この種の展覧会の醍醐味なのに、今回の絵画展では、その点が少々弱かったのが一つ目の理由。第2の理由は、とりあえず大きな絵を並べておけばいいという、いかにもサンケイ的な発想が、そこここで見られたこと。小さな作品も、それはそれで趣があっていいと思うのですけどねぇ。
あとこれは無い物ねだり以外のなにものでもないのですが、今回はあくまでも「絵画展」ということで、ガラス作品や仮面といった、ヴェネチア特有の作品がなかったのも、やはり片手落ちに感じました。せっかくヴェネチアなんですから……。