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冨倉の古典落語メモ帳


小目次
- 古典落語の特徴
- 古典落語の歴史
- 古典落語と上方落語
- オチの種類
- 落ちのパターン

古典落語の特徴

 優れた落語に共通するのは、「諧謔」「うがち」、言い換えれば人間性や世情の機微、そうしたものへの本質的な理解と、それを批判的な精神で、なおかつユーモアを忘れずに語るところにあります。

 ところで、落語は、いわゆる伝承芸の一つで、台本の類はありません。速記本と言われるものは、あくまでも、ある時ある人が演じたものを書き取っただけで、演じる人が違えばもちろんのこと、同じ人でも、いつも同じように演じるとは限りません。基本的に落語は、師匠が弟子に口伝えに教え、弟子は自分の個性で落語を演じます。初代柳家小せんは、「教わったとおりにやっていると、弟子は師の半芸にしかず。伸びる芸も伸びない」と言ったそうです。この辺が落語の面白いところでもあるのですが、同時に落語が広く普及するのを妨げる要因にもなっています。

 ともあれ、落語は、表情や仕草をまじえつつ、自然な会話を中心として話を進めていきます。この点が、説明口調で進められる「講談」とは異なります。また、落語は一人で演じられます。これが「漫才」と異なる点です。同時に、扇と手拭い(上方では、見台、膝隠、小拍子が加わる)だけを使い、服装や舞台道具による演出は基本的に行いません。


古典落語の歴史

 古典落語は、幕末から明治にかけて熟成しました。

 現在、一般には落語の原型ができあがったのは、戦国時代末期と言われています。この時期、戦国武将は、学者・茶人などで組織された「御伽衆」をかかえており、その中に「頓知者」と呼ばれる人々がいました。当時の代表的な人物として、『醒睡笑』(1628)を著した安楽庵策伝が挙げられます。彼らの滑稽話が落語の祖型となったと言われています。

 江戸時代中期、江戸の中橋広小路を中心に活動した鹿野武左衛門、京都の祇園真葛ヶ原を中心に活動した露の五郎兵衛、大阪の生玉社境内を中心にした米沢彦八らが登場し、最初の落語ブームが起こりました。

 ところが、1693年、江戸で悪疫が流行した際、「南天の実と梅干しを煎じて飲めば効能がある」との流言が広まり、南天と梅干しの値が急騰するという社会問題が発生しました。結局これは、一儲けしようと八百屋とたくらんだ浪人が流した虚言だということが分かったのですが、犯人が武左衛門の噺をモデルにしたと言ったため、武左衛門は島流しとなり、江戸の落語は下火になります。

 他方、上方では米沢彦八の後継者に加え、初代桂文治らが出て、落語が庶民の生活に浸透していき、その結果、落語においては、上方が先行することになりました。

 江戸中期から幕末になると、各種の政治改革のたびに統制を受けつつも、上方落語の影響を受け、再び江戸でも初代立川焉馬を中心にして落語が活発になり、三遊亭圓生三笑亭可楽ら職業落語家も登場してきます。

 明治新政府になると、芸能を統制下におくという政府の方針により、落語も大きく影響を受けました。特にこの時期、猥褻なものに対する規制が強まり、艶笑噺の多くが寄席から外されていきました。他方で、初代三遊亭圓左、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さん、四代目橘家圓蔵らを中心にして「落語研究会」が創られ、落語の質が高められた時期でもありました。この時期につくられた落語が、今日、古典落語と呼ばれるものになります。


古典落語と上方落語

 ところで、古典落語と上方落語はどう違うのか、と聞かれることがあります。

 おおざっぱに言ってしまえば、東京の落語家によって演じられた噺が古典落語、京都・大阪の落語家によって演じられた噺が上方落語ということになります。

 しかしながら、前述したように、落語は上方が先行していたということもあり、古典落語の中には、上方落語の流れをくむものが多数あります。一般的に言って、同じような題、同じような内容の場合、上方落語が元になっていることが多いようです。


オチの種類

 落語は、「落とし話」と呼ばれるように、「オチ」、すなわち結末の部分が一番重要だと考えられています。

 オチは、「話の落ち着くところ」という語義から来ているといわれています。

 このオチには、様々な種類があり、その分類については、昔から様々な説があります(ex.渡辺均『落語の研究』(1933)、今村信雄『落語の世界』(1956))。代表的な落ちとしては、

考え落(かんがえおち)一瞬考えてから、にやりとさせられるもの
逆さ落(さかさおち)物事や立場が入れ替わもの
仕種落(しぐさおち)仕草がオチになっているもの
地口落(じぐちおち)いわゆる駄洒落が落ちになっているもの
仕込落(しこみおち)前もってオチの伏線を仕込んでおくもの
途端落(とたんおち)最後の一言で結末のつくもの
ぶっつけ落(ぶっつけおち)意味の取り違えがオチになるもの
間抜落(まぬけおち)間の抜けたことがオチになるもの
見立落(みたておち)意表をつく物に見立るもの

があります。

 ただし、幕末・明治の風習を前提としている噺については、あらかじめそうした説明がなされる訳ですが、これを仕込落ととらえるのかどうかなど、定義が分かりづらくなっていることも事実です。そのため、例えば東大落語会のメンバーの中には、

観客の理解度によってサゲの種類に異動がある分類なんて、およそナンセンスである。

と言う人もいます。こうしたことを受け、近年、前田勇(『上方落語の世界』(1966))や桂枝雀(「上方芸能・68号」(1980))らは、これまでの外形的な分類から内在する意味を元に分類を試みたり、演じ方による分類を試みたりする説が出てきているものの、まだ一般的な分類方法となるまでには至っておりません。

 オチの分類の難しさは、人間の笑いに対する多様性の表われとも言えるでしょう。

 ちなみに「古典落語ネタ帳」では、上記の議論を踏まえつつ、一応、現在一般に言われている分類方法を取っています。


落ちのパターン

 上記の落ちの分類を元に、それぞれの落ちの概略を。

 先ほども述べたとおり、落ちの分類の仕方については、様々な議論があるものの、このサイトでは、今村信雄の分類方法に依拠して説明しています。

 冗談について、なにがどう面白いのかを説明することほど野暮なことはありませんが、それぞれの落ちの代表作を取り上げて、サゲの部分のおかしさを解説しています。本当に野暮な話ですが、その点についてはどうかご容赦のほどを。


考え落

 噺を聞いた直後は「???」となにが面白かったのか、よく分からないものが、次第に「あれ? もしかして、そういうこと?」と分かりはじめ、「あぁ、そういうことだったんだ」と合点がいくのが、「考え落」です。

 「考え落」の典型的な例には、「竈幽霊」という噺があります。

 「竈幽霊」では、博打に負けた幽霊が、「もう持ち金ないだろう?」と言われて、

「あっしも幽霊だ。決して足は出しません」

と下げます。

 幽霊には足がない。だから足を出さない。これで落ちが成立しているわけですが、これが落ちとして成立するのは、日本人にとって幽霊には足がないというイメージが定着しているからです。実際、海外の人がこの噺を聞いても、なにが面白いのか分からないのではないかと思います。

 このように聞く側の予備知識に頼って落ちを成立させているのが「考え落」の大きな特徴です。


逆さ落

 「逆さ落」のパターンは、さらに次の3つに分かれます。

 第1は、親と子、殿様と家来、武士と町民、先生と生徒、旦那と小僧、人間と動物などなど、一般的な上下関係のイメージを逆転させるパターンです。

 日本人の好みとしては、

強いものが圧倒的な強さで勝つ

ことよりも、判官贔屓や忠臣蔵に見られるように、

弱いものが瀬戸際で逆転勝ちする

こちらの方に爽快感を感じるようです。「水戸黄門」をはじめとする時代劇でも、「田舎じじいの分際で」とか「旗本の三男坊が」と、悪役よりも社会的な立場が低く描かれた主人公が、ラストで正体を明かし、立場が逆転するパターンが好まれます。

 このように上下関係の転倒の典型的な例として、子が親をたしなめる「初天神」等があります。

 第2のパターンとして、常識を逆転させるパターンです。

 典型的な例としては、「一眼国」があります。「一眼国」では、一つ目の国を訪れた人物が捕まり、取り調べの結果、「あ、こやつには、二つも目がある!」と落とします。

 言うまでもなく、一般的には人間は目が2つあるものと考えられています。1つしか目がない人は、いわば特殊な存在として位置づけられています。これが常識です。しかし、こうした常識が実際には頼りないも、相対的なもののでしかないことを目の前に突きつけられたとき、僕たちが取りうる態度としては、拒絶か、さもなくば笑うしかありません。、

 こうした常識が逆転することによって笑うしかない状態で落とすのも「逆さ落」の特徴です。

 そして、ラスト第3のパターンが、それまでの話の流れを反転させるタイプのものです。

 この第3のパターンの最も秀逸な例が「短命」です。「短命」では、美人の奥さんをもらうと早死にする理由が延々と語られます。女性の皆さんには悪いですけれど、男性としては実にうらやましい話で、なるほど、なるほどと頷くしかない話が続きます。噺の登場人物も同じく、なるほど、なるほどと頷きながら自宅に帰って奥さんの顔を見た瞬間、

「あぁ、俺は長命だ」

と落とします。

 このように「逆さ落」では主客の転倒、常識の逆転、話題の反転によるおかしさを落ちのベースにしています。


仕草落

 落語は、座って演じられます。また、演者のことを噺家と呼ぶように、話すことが中心です。そのため、コントはもちろんのこと、漫才と比べても動きが少ない芸となっています。

 しかしながら、では耳だけで楽しむ芸かというと、必ずしもそういうわけではなく、落語を楽しむ上で、表情や仕草も重要な要素の一つになっています。

 たとえば、二人が会話している状況を演じる際、今どちらが話しているのかを区別するため、顔や場合によっては体ごと向きを変えるのは落語の基本的な動作の一つです。このとき、目上の人が話しているときは必ず下手に向かって、目下の人が話しているときは上手に向かって話します。これによって、今話しているのがご隠居さんなのか、熊さんなのか、殿様なのか、声色や口調を変えなくても分かるようになっています。

 また、お酒を飲む仕草、扇子をお箸に見立てて食事を取る仕草等も落語ならではの実に味わい深い動作となっています。

 こうした仕草によるおかしさは基本的に落語の噺の中で色を添えるものですが、仕草そのものを落ちにした珍しい例に「死神」、「しわい屋」があります。

 「しわい屋」では、お金が貯まる方法を聞かれて、親指と人差し指でわっかを作り、「どんなことがあっても、この指だけは放しちゃいけない」と落とします。また、「死神」では、生命を司るロウソクの火を消すまいと震える手でロウソクを継ぎ足そうとする仕草で幕を引きます。

 繰り返しになりますが、落語の基本は、笑い話です。ですが、同時にパフォーミング・アートとしての性格も持っています。「仕草落」は、落語が「話されるお笑い」としての位置づけだけでなく、「演じられるお笑い」としての性格も持っていることを改めて我々に感じさせてくれます。


地口落

 「地口」とは駄洒落のことです。

 駄洒落、つまりは言葉遊びです。言葉を使う人間にとって「おかしさの」基本です。同音異義によって同じ音で全く違った意味を表現するおかしさは、洋の東西、時代を問わず、素直に「おかしい」と思えることの一つです。

 落語でも、駄洒落の持つおかしさは充分に理解していて、「地口落」は、「大山詣り」をはじめ、最もポピュラーな落ちの一つになっています。

 しかしながら、駄洒落で終わるのは安易すぎると「地口落」は噺家の中では評判が高くありません。

 落語の世界だけでなく、駄洒落は「オヤジギャグ」と言われたり、日本であまり高い評価を受けていません。

 「地口」が必ずしも高い評価を受けていないことは、個人的には日本語の文法の影響があるのではないかと考えています。

 言うまでもなく日本語は、ヨーロッパや中国のように「主語+述語+目的語」ではなく、

主語+目的語+述語

の順番を取ります。さらに述語の部分は、単語ではなく「述部」と言われるように通常、助動詞を伴うことが一般的です。このことが押韻とくに脚韻を踏むことに対して、日本ではあまり重視されてこなかった原因となっているのではないかと考えています。

 また、「地口落」の噺の多くが、他の落ちに比べて無理矢理話を終わらせている感じがするのも、「地口落」への評価を下げることになっているようです。

 評価については必ずしも高いものではありませんが、「地口落」は落語の落ちとして最も多く使われています。先に挙げた「大山詣り」をはじめ秀逸なものがたくさんあります。


仕込落

 先ほど紹介した「考え落」が、聞き手の「知識」に全面的に依存しているのに対して、「仕込落」は、聞き手の「理解力」に頼った落ちになっています。

 「仕込落」では、噺の途中、一般的には枕直後に落ちにつながる伏線を盛り込んでおきます。その上で、落ちの部分では、得に追加説明をするわけではなく、すっと落とします。

 たとえば、「山崎屋」では、昔の仕事を隠し、武家屋敷に奉公していたと相手の両親に説明して結婚した花魁が、奉公時代の参勤交代の話をせがまれ、

「武蔵屋に行って、相模屋によって、伊勢屋に行って……」

と思わず漏らしてしまったのを、

「へぇ! 武蔵に行って、相模に行って、その足で伊勢に行くのかい。達者な足だねぇ!」

と落とします。

 これだけ聞くと、意味を取り違えた「ぶっつけ落」のようですが、実際の噺では当時の花魁の顔見世興行から始まる日々のお仕事の状況や当時の吉原の街並みを事細かに説明することで、最後の落ちを活き活きとしたものにしています。

 この「山崎屋」の例に見られるように、「仕込落」では、前もって落ちの説明を噺の中に盛り込んでおくことが特徴になっています。

 ところが。

 古典落語が成立したのが江戸時代中期。古典落語として成熟期を迎えた明治時代にしても、今となってはずいぶん昔のことです。そのため、噺の成立時代では一般的な事柄だったことが、今となっては風俗、習慣がずいぶん異なってしまっていることも多々あります。先ほどあげた「山崎屋」にしても、花魁が街を練り歩くなんて光景を見られることは不可能です。

 このような文化の変化によって落ちの意味が分かりにくくなってしまっていることは、古典落語一般に言えることになっています。そのため、本来は他の落ちとして説明できたものが、「仕込落」のように落ちにつながる説明を加えないと笑いのポイントが分かりにくくなってきていることも確かです。東大落語会が言うように、

観客の理解度によってサゲの種類に異動がある分類なんて、およそナンセンスである。

と言いたくなる気持ちも分からなくもありません。

 しかし、個人的には観客の理解を助けるための補足説明と、本来的な意味での伏線は分けられると考えています。その上で、後者の「仕込落」の面白さを皆さんに感じてもらえればと思います。


途端落

 落語は「落とし話」の略から来ていると言われるように、最後の落ちの部分に笑いのポイントを集約しているのですが、その中でも特に最後の一言で「あっ!」と思わせるのが、「途端落」です。「地口落」、「間抜落」と並んで「途端落」もポピュラーな落ちの一つです。

 「途端落」の秀逸な例として、「馬のす」という噺があります。

 「馬のす」では、白馬のしっぽの毛を拝借して釣り糸にしたところ大漁だったと自慢する男に対して、友人が大変なことをしでかしたと警告します。ところが、「大変なことをしでかした」とは言うものの、なにがどう大変なのか、ちっとも友人は話そうとしません。なんとか聞き出そうと、男はあの手この手を使うのですが、友人は深刻な顔をしたまま口を濁します。こうなるとますます気になるわけで……と、友人への接待がどんどんエスカレートしていく様子を面白おかしく語るのが「馬のす」の骨子になっています。そして、最後の最後、腹一杯に料理を食べ終えた友人に対して、

「ねぇ、いい加減、教えてくれよ。馬の毛を抜くとどうなるんだい?」
「そりゃ、おめえ、馬が痛がる」

と落とします。

 このように「途端落」では、一見唐突な感じがする最後の言葉が、しっかりと落ちとして成立しています。


ぶっつけ落

 見間違い、聞き違い、記憶違い、いろいろと勘違いは起こりますが、そうした勘違いによる意味の取り違えによるおかしさを描いたのが「ぶっつけ落」です。

 時々「間抜落」と混同されることもありますが、「間抜落」が勘違い以前の間違いによるおかしさで落とすのに比べて、「ぶっつけ落」では、あくまでも勘違いを落ちの中心にしています。

 たとえば、「あくび指南」では、あくびの仕方を教える学校に付き添いで行った男が、退屈さのあまり思わずあくびをしてしまったところ、

「この方は器用だ! 見ていただけで覚えた」

と先生が感心することで落とします。

 あくびを教えること、そのもののばかばかしさは、ひとまず置くとして、先生は至極真面目です。あくびの仕方を教える学校ですから、あくびを褒めることもおかしなことではありません。しかし褒められたあくびが、実は授業に退屈して思わず出てしまったものというところが、この噺の落ちになっています。

 「あくび指南」に見られるように、意味の取り違えによるとんちんかんな状況を効果的に引き出しているのが「ぶっつけ落」です。


間抜落

 落語で最も愛されているキャラクターの一人に「与太郎」がいます。

 与太郎君は、もう成人といってもいい年齢に達しています。それにもかかわらず、頼りなく、世間一般の常識には無頓着で、注意力も散漫、失敗ばかりしています。失敗しても、全く気にすることなく、同じ失敗を何度も繰り返します。どうやら定職にも就いていないようです。ひょっとすると与太郎君は、今なら知恵遅れとして片付けられてしまうのかもしれません。しかし、落語の世界では実に活き活きと、そしてひょうひょうと生きています。周囲の人は、そんな与太郎君にはらはらさせられ、振り回され、与太郎君が何かしでかすたびに、「あ〜あ」とため息をつくことになります。それにもかかわらず、周囲は与太郎君を温かく見守ります。

 そんな与太郎君が登場する噺では、「間抜落」でまとめることが多いようです。

 「間抜落」は文字通り間の抜けたことで落とします。誰が聞いても「それはないよ〜」と思ってしまうような荒唐無稽な失敗から、誰もがついうっかりしでかしてしまうようなちょっとした失敗まで、様々な失敗談が語られ、その失敗のだめ押しとでもいうような一言で締めくくります。

 たとえば、「牛ほめ」では、新築祝いに出かけていった与太郎君。とにかくなんでもかんでも褒めろ、柱の穴ならお札を貼るのに好都合とかなんとか言っておけと教えられていたのを思い出し、庭で牛がポタポタと分をしているの見て、

「立派な牛ですねぇ。あの穴に秋葉様のお札を貼って……」

と落とします。


見立落

 「見立て」という言葉には、大きく分けて次の3つの意味があるようです。

  1. 見送り。送別。
  2. 見て選び定めること。
  3. なぞらえること。

 「見立落」は、上記の3番目の意味、あるものを意表をつく別のなにかになぞらえて、そこから面白さを引き出しています。

 たとえば、「熊の皮」では、しっかり者の奥さんに頭が上がらない男が、奥さんから用事を言いつかって出かけます。ところが、先方の家に着いたところで安心してしまい、用事をすっかり忘れてしまいます。そんなときに、ふと、熊の敷物があるのを見つけます。そこから、尻に敷くもの、尻に敷かれている自分、尻に敷いているのは奥さん、あ、そうだ、奥さんからのことづけがあったんだと連想していきます。

 このようにあたかも連想ゲームのようにして、落ちにつなげていくのが「見立落」の特徴となっています。


落ちのパターン:まとめ

 以上、やや駆け足で落ちのパターンを見てきました。

 もちろん、ここで取り上げたパターンは、あくまでも典型的な例です。実際には、分類というものの宿命として、「その他」としかいいようがない話が出てきてしまうことは避けられません。また、一つの噺が複数の落ちのパターンを含んでいることもあります。

 そもそも、落語はしかつめらしく鑑賞するものではなく、あくまでも笑って楽しむものです。このような落ちのパターンを意識しないと楽しめないというものではありません。

 ただ、たまには「今のはどうして面白かったのだろう?」と少し考えてみるのも、それはそれで面白いのではないかと思います。そのときの一助になれば幸いです。


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とみくら まさや(vzx01036@nifty.com) $ Date: 2000/01/24 $