どうも落語で殿様というと、馬鹿殿様か、いじわるな殿様ということになっておりますが、実際には必ずしもそういうわけではなかったのだそうです。ただ、わがままでいらっしゃったことだけは確かなようです。
「殿様、本日は剣術の稽古の日となっています」
殿様は、この剣術の稽古が大嫌い。しかし、一応、武士です。剣術が嫌いとはいえません。そういうときには、病気だと言うことにしてしまいます。
次の日は槍の練習。これも病気。今日は馬術。やっぱり病気。
嘘でも毎日病気だと言っていると、本当に病気になるのだそうで、今で言う神経症、当時は気鬱症と言っていたのですが、これにかかってしまわれます。
この病にかかると、とにかくなにもしたくない。部屋にばかり閉じこもってしまいます。ご家来の方々が、これではいけないといろいろと殿様の気分を晴らそうとするのですが、一向によくなりません。こういうとき、一番いいのは、やはりアレでしょう。てなわけで、殿様を吉原に連れ出します。
そうすると効果てきめん。殿様の気分はすっかり晴れます。ところが困ったことに、気分が晴れたのはいいのですが、別の病気にかかってしまわれ、毎夜毎夜、吉原の花魁のところに出かけて行かれます。
さて、国元に帰ることになり殿様は、少々がっかり。家来の方々はこれで一安心。いろんな思いが混じり合って、したに〜、したに〜と進んでいると、途中で盃を持って走ってくる武士に出会います。何事かと殿様がたずねると、武士が言うには、
「手前は主君の申しつけにより、国表より江戸のさる遊君へ、盃をつかわす途中でございます」
これを聞いて、殿様は感じ入り、
「大名の遊びは、さもありたきこと。そちの主人にあやかりたい」
と盃を借用して、酒をなみなみとつぎ、息もつかずぐぅっと飲み干しました。
この一件を盃の武士が国表に戻り、主君に伝えると、彼もなかなかの洒落者です。
「お手のうち見事、いま一度行って来い」
江戸時代の豪華なお遊びでございます。
江戸時代の名奉行というと、大岡越前、遠山様が挙げられますが、幕末の名奉行として、佐々木信濃守顕発という方がおられたのだそうです。
佐々木信濃守は、清廉潔白で明敏な方で、民情・部下の行動を知るために非番の時など、身を隠して市内の巡視などをされていたのだそうです。
この噺は、信濃守が市内を巡視中に見つけた鋭敏な子供とのやりとりに基づくお話です。いわゆる頓知話になっており、特に落ちはありません。
以前、ピアノ殺人事件というのがありましたが、隣近所に悩まされるというのは、なにも今に限ったことではないのでして、昔から、隣の騒音には悩まされる人が多かったようです。
この三軒長屋の住人も、そんな1つでして、1件目が火消しの頭、2件目が隠居、3件目が剣術の先生が住んでおりました。火消しの頭といえば、若い者の溜まり場になって、火消しの稽古をやったり、それが終わったら酒が入ったりと、一日にぎやかなことありません。剣術の先生のところも、あんまり事情は変わらないようでして、やっぱり昼間から「面だ」「胴だ」とバタバタ騒ぎ、夜になれば詩吟をがなりたてるというわけで、やっぱり一日騒がしい。結局、一番、割を食っているのは真ん中のご隠居さん。
落ちは、たまりかねた隠居が「引越しをしてくれたら、ご馳走しよう」というと、2人が「明日引っ越す」と言ってきたので、よろこんでご馳走し、「さてどこに引っ越すのか」と聞くと、「私はこの人の家に、この人は私の家に」
かつて、故枝雀師匠の演じる「三十石」を見て落語の面白さに目覚めた僕としては、この噺には特別な思い入れがあります。
この噺は、京都の伏見から大阪へと向かう船の中での、旅人たちのやりとりを面白おかしく描いたものです。
落ちは、首の短い客をからかって、
「そんなに首が短いと、せっかくおいしいものを食べても、あんまり味わえないだろう」
「いや、そのかわり苦い薬が飲みやすい」
(さんにんたび) 別名:「朝ばい」「神奈川宿」「鶴屋善兵衛」「おしくら」「伊勢詣り」
出典:古典落語6 小さん集 (ちくま文庫)
東京の人というのは、昔から結構見栄っ張りでして、とにかく何が嫌いかといって、無知だと思われるのが、一番気に食わない。逆に、事情通だと思われることを、ひどく嬉しがるようでして、こういう人が集まると、大体において、仲間内だけで通用する言葉を使いたがるものです。特にコンピュータ関係者には符牒を使いたがる人が多くて困っているのですがって、これは愚痴ですけれど。
ともあれ、この三人旅は、江戸からの旅人と馬子との符牒をめぐる掛け合いで成り立っております。
「なぁ、俺はもう疲れて、一歩も歩けないよ。あそこに馬子がいるからさぁ、あれを使おうよ」
「情けないこと言うなよ。そんな顔していると、足元見られて高く吹っかけられるんだから。向こうから『乗ってください』と言われて、値切るぐらいじゃないと江戸っ子じゃないや。なぁ、ほら、顔をしゃんと上げて、足なんか引き摺らないで、さっさと歩けって」
「そこの旅の人、ずいぶんお疲れのようだが、よければ馬に乗っていかないか」
「(小声で)お、来やがったな。いいか、もの欲しそうな顔するんじゃないぞ。おれが値切ってくるから。おい、馬子。乗ってやってもいいが、こちとら江戸っ子だい。高いの安いの言わないから、そのつもりで負けやがれ」
「なんだかよく分からないことを言う人だなぁ。じゃぁ、宿場まで案内して、ヤミにしときましょう。」
「なんだい、そのヤミってのは?」
「あはは、江戸の人はヤミも知らないのかい」
「馬鹿言うな。それぐらい知ってるよ。ちょっと確認しただけだ」
などと、大見得きりましたが、彼らに馬子の言葉が分かろうはずもありません。なんだかトンチンカンな値引き交渉が繰り広げられることになります。
なお、この噺は長い演題の一部分を持ってきたものでして、落ちは特にありません。
幽霊というと、
「うらめしや〜」
と出てくることになっていますが、あれは歌舞伎の音羽屋調子なのだそうです。あれが、
「うらめしわ〜」
と舞妓さんの言葉で出てくると、恐いんだか色っぽいんだか分からなくなりますし、ましてや
「うらめしおます〜」
なんて、大阪の言葉で出てこられたら、風情もなにもあったものではありません。
ところで、昔は亡くなると、親類縁者の方が集まって、仏様の髪に剃刀を当てたのだそうです。怪談話で幽霊が髪を振り乱して登場するのは、ですから、きちんと供養されていない証拠なのだそうです。
ともあれ。
仲のいい夫婦がおりました。夫は大変優しい人で、妻もやはりよく気のつく、かわいらしい方でした。ところが、奥様の方が、もともと体が弱かったと言うこともあって、はやり病にかかり倒れてしまいます。夫の寝ずの看病にもかかわらず、奥様はとうとう亡くなってしまいます。
亡くなる前に奥様は、少しやきもちの気持ちもあったのでしょう。夫に、あなたは大変優しくて素敵な人だから、きっと新しい奥様をもらわれることでしょう。それは仕方ないと思うのですが、それでもやっぱり新しい奥さんを可愛がられると思うと、心残りで……と言います。夫は、苦笑して、それならこうしましょうと妻と約束します。
夫が言うには、もし周囲からの勧めを断れきれず、結婚することになったら、新婚の夜に幽霊になって枕元に出てきなさい。あなたが幽霊だろうとなんだろうと、私の方は一向に構わないが、新しい妻とすれば、驚いて里に帰るだろう。そういうことが度重なれば、あそこの家には先妻の幽霊が出ると評判になって、嫁の来てがなくなる。これなら私も独身でいられるだろう?
妙な約束をしたものです。
さて、奥様が予想したとおり、奥様が亡くなると、やはり親戚のものが、はやく後妻をもてと男にけしかけます。男はとうとう断り切れず、結婚することになります。
新婚の晩。男としては、はやく先妻の幽霊が出てきてくれないかと思うのですが、結局その晩彼女は現れません。まぁ、十万億土も離れたところから来るんだから、1日ぐらい遅れることもあるわなぁと思って、次の夜も寝ずに待ちますが、やはり現れません。その次の日も、その次の日もと待ちますが、やはり一向に現れる気配もありません。
そうこうするうちに、3年の月日が経ち、子供もできます。そんなある夜、とうとう先妻の幽霊が現れます。
夫としては、ちょっと困るわけです。もちろん、先妻を今でも愛していますが、そうは言っても新しい妻をもらって3年も経てば、それはそれで情が移りますし、それになにより子供がいます。なんだって、今頃になって現れたんだいと、少々怒りながら幽霊にたずねます。
すると、先妻はもじもじしながら、
「だって、あなたに嫌われたらいやだから、髪が伸びるのを待ってたんだもん」
いつの時代も男性は女性に惚れられていると思いたいもので、吉原の女性はそうした男性の心理を巧みに操り、「あなたのことが好きになったの」とか、「一緒になりたい」など、あのてこの手を使って虜にしていく訳です。
ところで、その昔、起請というものがありまして、これはどういうものかといいますと、神に対して誓う誓約文のことで、吉原にいる女性なんかは、「年季があけたら、あなたのところに行きます」という誓約書を好きな男に送っていたのだそうです。さて、この起請を3人の男が同じ女性からもらったから、さぁ大変。
もちろん、むこうは商売。本気にした男性の方が間抜けなのですが、そうだと分かっていても悔しい。ひとつ懲らしめてやれってことになりまして、3人そろって女のところに押しかけます。
落ちは、嘘の起請を書くと熊野神社のカラスが3羽死ぬと怒られた女性が、
「あら、そう。それならあたしは、いっぱい書いて、世界中のカラスを殺すよ」
「そんなに殺して、どうすんだい」
「朝寝がしたい」
今でもそうですが、昔から奈良には鹿が多ございます。あんまりにも多いものですから、しかと数えることができないなんて、馬鹿なことを言っている場合ではなく。
さて、その昔、鹿は神様の使いと考えられておりまして、大変大切にされておりました。餌なんかも幕府が三千石もの飼料を与えていたのだそうで、そんなわけですから、鹿に害を与えたら罰金。ましてや殺しでもしたら死罪だったのだそうです。
奈良の三条横町に豆腐屋の与作という人がおりまして、この人は大変親孝行で、困っている人がいたら自分の着物を売ってでもほどこすぐらいの慈悲深い人でした。その与作さんが、ある朝、いつものように豆腐を作っていると、外で大きな物音がしました。驚いて出てみると、大きな犬が桶の中に頭をつっこんでむしゃむしゃとできたばかりのおからを食べています。追い払おうと、そばにあった薪を投げつけると、当たり所が悪かったのか、ばたっと倒れてしまいます。ところが、犬だと思っていたのが、そばに寄ってみると鹿でした。あわてて、薬をやるやら人工呼吸をするやら、なんとか看病しますが、そのまま鹿は死んでしまいます。与作さんは、可哀想に縄を掛けられて奉行所に引かれていきます。
その時のお奉行さんは、根岸肥前守という方で、大変お裁きのうまい慈悲深い方でした。
「その方、生まれはどこだ」
「へぇ、奈良の三条横町……」
「これこれ、そちの住まいを尋ねておるのではない。生まれたところはどこかと訊いておる」
早い話が、奈良生まれでなければ、鹿に関する規則を知らなかったとしてもやむをえないということにして、与作の命を助けようということでして。
しかし、与作さんは、お奉行様の気持ちを痛いほど分かりつつも、根が正直なものですから、生まれも育ちも奈良だと言います。
そこで、奉行は、こんなことを言い出します。
「鹿を殺したと言うことではあるが、奉行には犬にしか見えない」
事件があった当時、ちょうど鹿の角が生え替わる時期で、死んだ鹿も角が落ちていたわけです。周囲にいた人々も、与作のことを気の毒に思っていたので、奉行の機転に賛同します。
ところで、肥前守が、なぜこのようなことを言いだしたかというと、当時、鹿の守り役であった塚原という人物だったのですが、この人物が、鹿の飼料を着服し、金貸し業を行っていることへの牽制だったと言われています。
ともあれ、死んだのは鹿ではなく犬だということになり、与作さんは無罪放免となります。
落ちは、豆腐屋の与作さんに、奉行が
「切らず(雪花菜)にやるぞ」
泥坊といえば、鼠小僧が一番の人気者ですが、この噺は、その鼠小僧が冬の雪降る中でシジミを売って歩いている子供に施そうとして断られるというお話です。
子供が言うには、自分の父親が困っていた時に、知らない人から30両ものお金を貰ったのですが、そのお金が盗まれたお金だということで、父親が取り調べを受けることになります。父親は、たとえ相手が泥坊だったとしても恩人であることには変わりないから、貰った相手のことを言いません。その結果、牢に入れられて3年になるとのことです。
それを聞いた次郎吉。思い起こせば3年前、自分がやったお金が仇となって、父親が牢につながれ、その子供が幼いながらに冬の日にしじみを売って歩く。元はといえば、全て自分から。因果を感じた次郎吉は……というお噺。
人情話なので、落ちはありません。
この噺は、実在の人物の伝記物という実に珍しいものです。
その昔、紫檀楼古木という狂歌の達人がおりました。この人物なかなか愛すべき性格の人で、元はそこそこ腕のいい大工だったのですが、趣味の狂歌に凝りすぎて、仕事と財産を失い、晩年は貧しい生活をおくったのだそうです。
芸は身を助けるとよく言いますが、彼なんかは芸で身を滅ぼした訳で、こう書くと、不運な芸術家として「知ってるつもり」あたりで、関口君とか加山君あたりに眉間に皺を寄せて同情されたり、藤田のともちゃんあたりに号泣されてもおかしくないのですが、幸い彼は狂歌を趣味にするぐらいの洒落者で、ひょうひょうと人生を泳ぎきったのだそうです。
なお、彼の辞世の句は、
六道の辻駕籠に身はのりの道
ねぶつ申して極楽へ行く
享年66歳とのこと。
昔、女がおりまして、この女、おしゃれも好きだし、遊びも大好きという大変愛すべき性格の持ち主でした。
彼女のような人間にとって残念なことに、欲望のおもむくまま生きようとすると、この世はとかくお金がかかるもので、それでも若い頃は、まだ貢いでくれる男がいたのですが、歳をとるとそういう訳にもいきません。次第に借金が借金を呼び、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。こんなことなら、いっそ死んでしまおうと思ったのですが、あの女は借金で自殺したと言われるのはいや。そうだ、誰か相手を見つけて死ねば心中と浮名がたつ。それがいい、そうしましょというわけで、昔付き会っていた男性の中から、ちょっとぽーっとした人を選びます。選ばれた方はたまったものじゃない気もしますが、そこはぽーっとした男、女に声をかけられたというだけで有頂天になってしまいます。
そんな訳で二人して品川に行き、まず男がざぶんと橋の上から海に身をなげて、次に女がというところで、帯をつかまれて引きとめられます。
「後生だから、離しとくれ。あたしゃ、もう生きてられないんだよ」
「だめだい、どうせ金がなくって死ぬんだろ。番町の旦那が、お前さんの借金を支払うって言ってたぜ」
「あら、そう。払ってくれるの。嬉しい。でもどうしよ。先に一人飛び込んじゃった」
「誰が飛び込んだんだい。金公? あいつならかまうことない。あのおっちょこちょいがいなくなったってどうってことないよ」
ひどい言われようですが、それはともかく。品川は遠浅でして、大人の膝ぐらいまでしかありません。これでは、ちょっとおぼれる訳にもいかなくて、しこたま水を飲んでむせかえったものの、無事(?)男は岸にたどり着きます。
落ちは、女にだまされて悔しい思いをした男が、友人に協力してもらって幽霊話で女を脅したところ、さすがの女も因果話に恐ろしくなり、命の次に大事な髪を切ってしまいます。そこで男が現れて「あんまり男を釣るから、髪を切って比丘(びく)にしてやった」
あるところに有能な魚屋さんがおりました。彼が魚河岸で選んでくる魚は新鮮で評判良かったのですが、あいにく彼は、なるべくなら働きたくない人でした。そんな彼が、浜辺を歩いていると、財布を拾います。中には42両もの大金が。家に飛んで帰って、奥さんに報告し、ほっとしたのとお金があるという安心感から、お酒を飲んで寝てしまいます。
翌朝目がさめると、奥さんがいつものように「働きに行け」と言います。なにいってんだい、昨日、42両のお金を拾ったじゃないか。あれがあればしばらく寝て暮らせると男が言うと、奥さんはあきれた顔をして、
「寝ぼけたことを言ってんじゃないよ。情けないねぇ。いくら貧乏だからって、そんな夢を見るなんて。お前さん、しっかりしとくれよ。あたしは、貧乏が嫌だって言うんじゃない。そりゃ、お金があるにこしたことないけど、あんたがちゃんと働いて、それで稼いできたお金があれば十分だと思っている。なにしろ、あんたの目利きは確かだからね。ちょっとその気になれば、2人が生活するぐらいの稼ぎはなんでもないんだろ。それとも、腕はさびついたのかい」
などと言われて、男は心を入れ替え、大好きな酒も断ち、仕事に精を出すようになります。そうすると、元々腕はいいわけですから、3年も経つと、小さいながらも表通りに店を構えるようになり、若い者の2、3人も使うまでになります。
その3年目の大晦日。
奥さんが、改まった顔をして古い財布を男の前に差し出します。
「お前さん、この財布に見覚えがあるでしょう。中には42両入っています。3年前、あんたが芝の浜で拾ってきたときには、弱ったことになったなぁ、あんたのことだから、こんなにお金があったら、明日から働かないだろうなと思っていたら、あんたがお酒を飲んで寝てくれたので、とにかくお奉行所にお金を届けて、お前さんには夢だ夢だで押し付けたら、あんたは人がいいから、すんなり信じてくれて、好きなお酒もやめて一生懸命働いてくれるようになって……。このお金もずいぶん前に落とし主がいないからといって、奉行所から戻ってきたんだけど、せっかくお前さんが真面目に働くようになったのに、こんなものを見せて、またお酒でも飲まれたらと、心を鬼にして今日まで黙っていました。幸い、お店も順調で、もうお前さんがお酒を飲んで少しぐらい怠けても、お得意さんに迷惑をかけることもないだろうし、そう思ってこのお金を見せて、今まであんたに嘘をついていたことをお詫びして……。腹が立つだろうねぇ。今まで連れ添う女房に嘘をつかれて……。今日は、あたしは覚悟を決めてますから、あんたが気にすむように、殴るなりなんなりしてください」
こう言われて、殴るようじゃ、男じゃありませんね。夫は、妻に感謝します。気分直しにと、妻は夫にお酒を差し出します。3年ぶりのお酒。男は嬉しそうに杯を口元まで運びますが、
「やめとこう。また夢になるといけない」
東京で一人暮らしを始めてから、さすがに出かけに鍵をかける習慣はつきましたが、帰ってから鍵を閉めるのを忘れて、そのまま寝てしまうことがしばしばあります。ひどい時には、朝起きて鍵がないと探していると、鍵穴にぶら下がったままなんてことも時々あります。こういうことを友人に話すと、
「それはシャレになっていない」
と叱られるのですが、別に僕はシャレで生きている訳ではないのだけど……。
ともあれ。
ヤキモチ焼きの男がおりまして、奥さんが通りで男と目があったと言っては、ふてくされ、魚屋の小僧さんに声をかけたと言っては、すねてしまうと言ったあんばいでして、そんなある日、家に帰ると奥さんの姿が見当たりません。家中探してみると、台所に風呂敷包みが置いてあります。中を開けると、男の着物と奥さんの着物なんかが入っていて、これはひょっとして、間男かなにかができて、今から駆け落ちでもしようとしていたんだろうか、きっとそうに違いないと、ひとりでやきもきしていると、奥さんが帰ってきます。
どこに行っていたのか、いや、そんなことより、これからどこに行くつもりなのか、一体誰と出て行こうとしていたのかと奥さんを問い詰めるのですが、奥さんは知らぬ存ぜぬの一点張り。
次第に状況はエキサイティングな方向に進み、「お前の顔なんか見たくない、出てけ」、「こっちこそ、出てくわ」といったところで、奥のふすまがスーっと開き、男が出てきます。
「お二人とも、落ち着きなさい。その風呂敷包みは、奥さんがこしらえたものじゃありません。お二人が留守の間に、すーっと入ってきて、お金になりそうなものを集めて、それを風呂敷きで包んで、背中にしょって外に出ようとしたところに、ダンナさんが帰ってきたってんで、大慌てで奥の押し入れにすっ飛んでいったものの、荷物を忘れてしまった男がいたんです。それがあたしなんですけども」
「じゃあ、なにかい。お前さんはドロボウさんかい?」
「世間一般では、そう言います」
オチは、正直に出てきたドロボウに感心した男が、お酒を振る舞ったところ、酔いつぶれてしまったので、一晩留めることにした男が奥さんに、
「ドロボウが家の中にいるんだから、外にまわって、表からつっかえぼうをしておいで」
江戸時代の大名の次男坊というと、長男に万が一何かあった場合のスペアぐらいの位置づけでして、お呼びがかかるまでは部屋住み暮らしと言って、大変味気ないものでした。
この三味線栗毛に登場する酒井雅楽頭(うたのかみ)角三郎様は、そうした部屋住み暮らしから、運命のいたずらで大名になった人物でございまして、苦労人ということもあり、世の中の機微も知り、洒落っ気もある人物として描かれています。
その雅楽頭が、部屋住み暮らしの時代に世話になった年老いた盲の按摩を、かつての労をねぎらう意味も込めて取りたててやるというのが、このお噺。
オチは、雅楽頭が馬につけた名前のいわれをたずねられて、
「余は雅楽頭じゃ。唄が乗るから三味線とつけた。乗らん時は引かせるし、止める時はどう(胴)と申す」
「そうすると、家来どもが乗るとどうなりますか?」
「バチ(撥)が当たる」
大名商売と言いまして、徳川幕府から明治新政府に変わった頃は、それまで武士だと威張っていた人々が、なれない商売を始めて、ずいぶんからかわれたものでした。
「おい、奥。余が鰻を押さえておるで、その隙に、この頭のところへ錐を刺せ、錐を。よいか、余が鰻をつかまえるぞ。あ、それ、これ、やれ(鰻をつかまえたものの、前へ前へと逃げようとするので、両手で交互につかみ)、こ、これ、逃げるな。奥、何をボーっと見ておる。前のものを片づけんか。履き物を出せ、履き物を」
「旦那様、どこへ行かれる……?」
「どこへ参るかは、前へ廻って鰻に聞いてくれ」
今では目の不自由な人と言うことになっていますが、その昔は「盲」と申していました。差別言葉だとは重々承知しているのですが、ここでは時代背景もかねて、あえて「盲」と申します。
さて、あるところに盲がおりまして、彼は目が見えないものの働き者で、正直者ということで近所の評判もなかなかようございました。そんな彼を日々支えている妻も、働き者で、気だてもよく、こちらも評判の妻でした。この二人が、互いに助け合いながら、毎日を送っておりました。
彼は、妻に満足していたのですが、惜しむらくは盲。一度も妻の顔を見たことがありません。夢の中で想像してみるのですが、やはり顔の部分だけはボーっと霞がかかって見ることができません。そこで彼は、なんとか一目でいいから妻の顔を見たいと、神様に願を掛けます。
当時、目の病にかかった人は、茅場町の薬師様にお参りに行っておりました。彼も毎日仕事が終わってから、茅場町まで杖を頼りに日参りし、21日の願掛けを行います。ちょうど満願の日、彼の一念が神に届いたのか、目が開きます。
喜んだ彼は、急いで家に帰ろうとするのですが、不思議なもので、盲であったときは、何の苦もなく帰れた家路が、目が開いたとたんにどちらを向いて帰ったらいいのか途方に暮れます。人に道を尋ねながら、家へと帰ることになるわけですが、その道々、彼は自分が役者勝りの美男子で、しかし、妻は江戸で1、2を争う醜女だということを知ります。
見たいような見たくないような、そんな気分になりながら、彼は家にたどり着き、おそるおそる玄関の戸を開けます。すると中には、この世のものとは思えない顔をした女性が、台所で包丁を握っています。
思わず、わっと声を上げたところ、妻がこちらを振り向き、包丁を持った姿でにやっと笑ったところなんかは、まさに噂に聞くところの鬼婆そのもの。うひゃーと叫び声をあげたところで、妻に揺り起こされます。
依然として盲なままなことに、ちょっとがっかりしながらも、彼はその日以来、願掛けに出かけなくなりました。
心眼というお話でございます。
一時期ほどではなくなりましたが、それでも根強い人気があるのが、グルメです。
どこそこの天然物のなんとかという食材を、何某という有名高級店の調理人が、腕によりをかけて作った……なんて料理を、ありがたがって食べる人は後を絶ちません。などと、ひがみが入っているわけですが、それはさておくとしまして。
「若旦那、あなたは通なお方だ。それでおたずねしたいのですが、当今では、どういうものを召し上がっていますか」
「当今では、拙らが食するようなものはございませんなぁ。割烹店のものなんぞは、食べ飽きて、人の食さんものを味わってみたいものです」
「さいですか。実は、貰い物があるのですが、あたしらのような無学なものには、どうもよく分からない。ことによると舶来物かと思うのですが、もしよければ、ちょっと見ていただけないでしょうか」
「左様ですか。よござんす。これですか。これは……、この鼻につーんとくるにおい、まずこれが大切でございますな。それでもって、この目にぴりっとくるところ、ここもポイントです。このつーんとぴりっとを我慢して、ぱくっと食べると、この、や、あっ、ひぇっ……どうも、これは乙な味だねぇ」
「(独り言で)食べちゃったよ、この人。腐った豆腐を。(素知らぬげに)若旦那、これはなんという食べ物でございますか」
「拙の考えでは、これは酢豆腐でしょう」
夏痩せと答えて後は涙かな
なんて色気のあることを言っていたのは、はたして何年前のことでしょうか。思えばあの頃、僕は若かった。
個人的な感慨に浸っている場合ではなく。
若旦那がおりました。この若旦那、教養もあり、仕事もでき、それになかなかの美男子だったのですが、オクテな人でした。どこぞの誰かさんとは全く逆なわけですが、それはともかく、この若旦那がある日、上野に遊びに行ったところ、一人の女性と出会いました。若旦那はこの女性に人目ぼれ。声をかけたいのだけれども、なにしろオクテでして、きっかけがつかめません。そうこうするうちに、女性は若旦那に会釈して立ち去ります。後には、短冊が残されていました。若旦那が手にとって見ると、短冊には、
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」
と書いてあります。
教養のある若旦那ですから、この下の句が「われても末に逢はむとぞ思ふ」と続くことにピンときたのですが、相手がどこの女性かわかりません。以来、若旦那は寝てもさめてもこの女性のことばかり思いつづけ、とうとう寝込んでしまいました。
事情を知った熊さんが、この女性の捜索に乗り出します。
オチは、ようやく相手の女性を見つた熊さんが、喜びのあまり興奮して、鏡を割ってしまい、おかみさんにしかられたのに対して、
「心配ない。『割れても末に買わんとぞ思う』」
病気の原因が、体の中にいる虫が悪さをしているからだと考えられていた時分の話でございます。当時、男性特有の病に、突然激しい腹痛に襲われる疝気というものがありました。これは、今ならストレスで腸にガスが溜まっているぐらいで片付けられますが、当時は疝気の虫が、おなかの中で走りまわっているからだと医者はしたり顔で患者に説明していました。
この疝気の虫は、普段はおなかの中でおとなしく暮らしているのですが、大のソバ好きで、宿り主がソバを食べると
「自分も食べたい!」
とアピールするのだそうで、これが腹痛の原因だと思われていた訳です。ところで、この疝気の虫は唐辛子が苦手で、唐辛子が来ると知るやいなや、大急ぎで別荘に逃げ込むことになります。この別荘というのが、なんといいますか、そのぉ、男性の股間にぶら下がっているものでございます。
さて、話は、疝気の虫が、ひょんなことから女性の体に入ってしまったことから始まります。いろいろよ悪さをしていると、とうとう女性が唐辛子を飲んだので、慌てて別荘に飛び込もうとしたところで
「いかん。別荘がない!」
落語には、粗忽者というのがたびたび出てきます。粗忽者というのは、これは慌て者であったり、忘れ屋さんであったり、うっかり者だったりするわけですが、落語の世界では、この粗忽者は時に愛すべき者として、ときに嘲笑の対象として描かれることになります。
「おい、熊。お前、こんなところでのんきに歩いていやがるが、大変なんだよ」
「どうしたんです? 深刻そうな顔をして」
「どうしたも、こうしたもあるものか。おれは、さっき行き倒れが出たってんで、びっくりして角の番屋に行ってみると、お前が死んでたんだよ」
「えっ! 俺が死んでた? だって、俺、ちっとも死んだような感じはしないけど」
「だから、お前は図々しいってんだよ。お前は夕べから、浅草の観音様の前で死んでたんだ。まぁ、悪いこと言わないから、さっさと死骸を引き取りに行ってこい」
「そうか、俺は死んでたのか。そう言えば、なんだか、夕べから体調がよくなかったような気がするなぁ」
というわけで、そそっかしい人が、2人いると、だいたい訳の分からないことになるようで。
落ちは、自分の遺体を抱き上げて、
「なんだか、訳が分からなくなったなぁ。こうして抱かれているのは、確かに俺なんだけれど、抱いている俺は、一体誰なんだろう」
粗忽者。つまり、あわて者のことです。落語の中では、与太郎と同じぐらいに人気のある登場人物でございます。
この「粗忽の釘」は、そうしたあわて者の失敗談をいくつもつなぎ合わせて出来上がってるものでして、演者によって、長くなったり短くなったりします。もっとも、落語というのは、その多くが小話から出来上がったものですから、こうした伸縮自在性は、「粗忽の釘」だけに限ったものではないのですけれども。
従いまして、これを一口で紹介することの意味は、あまりありません。基本的なオチとしては、壁にホウキをかけるための釘を打ち、その釘が隣家に突き出てはしないかと心配して見に行ったところ、
「すいません、釘は出てませんか?」
「釘が出るも何も、ちょっとこの仏壇見て下さいよ」
「仏壇? はぁ、これは立派なものですなぁ」
「何言ってんだか。仏壇をほめてほしいんじゃないんだ。仏壇の中に阿弥陀様があるでしょ? その阿弥陀様の頭の上を見なさい」
「阿弥陀様の上? へぇぇぇぇ。えらい長い釘を打ちましたねぇ。お宅じゃ、あそこへホウキをかけますか?」
今でこそ、電話や Fax、さらには電子メールなんてものもあって、遠く離れた人に用件を伝えることもそれほど難しくなくなりましたが、むかしは、書状を届けるか、さもなくば誰かに先方まで行ってもらって、口伝えでという方法を取っておりました。
ある日、武家屋敷に親類筋にあたります杉平家よりの使者がやってきます。ところが、この使者、屋敷につくなり、腹を切る、切腹すると大騒ぎ。時代劇なんかだと、簡単に切腹されていますが、実際には、幕府への届け出とか、なかなか面倒なことがたくさんありまして、簡単に切腹されてはたまらない。とにかく使者を落ち着かせ、理由を尋ねたところ、使者が言うには、使者の口上を忘れたとのこと。どうにか思い出してもらえないかと皆が思案していると、使者が言うには、子供の時分から、親が尻をつねってくれると思い出したという。
それじゃあ、つねりましょう、と使者の尻をつねるのですが、年季が入っているといいますか、つねられ慣れているお尻でございまして、少々のつねりかたでは、ハエが止まった程度にしか感じない。力自慢がよってたかってつねるのですが、全くこたえた様子がありません。最後にはくぎ抜きまで持ち出して、ようやく思い出したことは、
「しまった、屋敷を出る時に、用件を聞くのを忘れた」
その昔は、願懸けと言うものが流行っていまして……いやまぁ、流行るといういい方は適当ではないかもしれませんが、何かと神様にお願い事をしたものです。イワシの頭も信心からと言う訳ではありませんが、その当時は、色々と御加護があったそうです。
例えば、四谷左門町のお岩さまにお参りした、ある雨具屋の老人にこんなことが起こりました。
その日、老人は、草鞋を3足ばかり作り、店の天井にぶら下げていたのですが、折りからのにわか雨で、あっという間に売り切れました。これも神様のご利益だと喜んでいたところに、またお客さんが来ます。ぬかるんだ道を下駄で歩くのは気の毒だとは思うのですが、あいにく草鞋は売り切れで……と、ひょいと天井を見ると、草鞋が1足ぶら下がっています。それを引き抜くと、また草鞋が天井から出てくる。それを引き抜くと、また……と言った具合に、次々と草鞋が出てきたおかげで、老夫婦の雨具屋は、大変繁盛したのだそうです。
この話を聞いた、床屋さんが、同じようにお参りに行き、帰ってくると、床屋さんの前に行列ができています。早速ご利益があったと小躍りしながら、剃刀を研ぎ、お客さんの髭をすっと剃ると、後から新しいのが、ぞろぞろと……。